祝 沖縄尚学高校優勝記念!

沖縄の高校野球の分岐点

 

昭和33年の第40回記念大会に沖縄県から首里高校が沖縄勢として初めて甲子園の土を踏んだ。

 

沖縄予選に読谷、名護、糸満、沖縄、石川そしての5校に勝抜き初の栄冠を手にしたのだ。

 

首里高校いや沖縄県として初めての甲子園。

 

結果は一回戦福井県の敦賀高校に0-3で完敗した。

 

その後は、北国の高校と沖縄の高校との組み合わせが野球どころの県の対戦が決まると、対戦相手から歓喜のざわめきが聞こえた程であった。

 

そんな流れを変えたのが昭和43年首里が初出場してから丁度10年

 

甲子園には興南旋風が吹き荒れた。

 

瀬長実監督に鍛えられた堅守、力強い打撃で

 

岡谷工業5-3

 

飯塚商業1-0

 

長崎海星4-0

 

準々決勝も

 

盛岡一高10-4と下し準決勝へ進出。

 

準決勝では野球王国でキメ細かな野球を身上とする興国の前に14-0と大敗したが当時の沖縄県民は歓喜に沸いたのではないだろうか?

 

そんな中、良く言えば野球熱心な、悪く言えは『野球馬鹿!』の男がが虎視眈々と甲子園の狙っていた。

 

その名は沖縄の野球を変えた男と言われる人『栽 弘義』であった。

 

昭和50年の第47回選抜大会で栽率いる沖縄の豊見城高校はそのベールを脱いだ。

 

1歳年上で甲子園に出場出来ない亀谷興勝を監督に据えて、自分は部長として初めて甲子園で指揮を執った。

 

エース赤嶺の完成されたスピードボール。最初見た時はビックリした、初戦はこの年夏の甲子園で優勝する千葉県の名門習志野を2安打の3-0で完封したのだ。

 

2回戦は東北の好投手金子がいて前年度明治神宮大会準優勝校の日大山形のと一戦。

 

これも赤嶺が9安打打たれたが、4-2で競り勝った。

 

準々決勝は今大会優勝候補、プリンス原辰徳が居る東海大相模。

 

9回迄0-1とリード、9回二死迄赤嶺は相模打線から12奪三振を記録していたが津末の二塁打をきっかけに連打でサヨナラ負けを喫した。

 

安打は豊見城13、相模8まさに圧倒的優位だった。

 

その後の栽監督率いる沖縄水産が2年連続準優勝、そして我喜屋監督が興南を率いて甲子園で活躍する。

 

そして沖縄尚学が選抜優勝、興南が春夏連覇、そして今夏は沖縄尚学が優勝と輝かし金字塔を建立した。

 

前から、いやもう沖縄は立派な球国なのだ。

私の私見なのだが、沖縄の高校野球の風向きが変わったのは豊見城高校からではないかと思っている。

 

あっ!、いけない今夏の沖縄尚学で一番喜んでいるのはあの『安仁屋宗八』さんなのかも知れない。

 

☆週刊朝日甲子園大会号第40回(朝日新聞社)。

 

☆甲子園甲子園の夏(朝日新聞社)。

 

☆毎日グラフ 第47回選抜大会(毎日新聞社)。

 

☆甲子園名将列伝(ベースボールマガジン社)より写真引用。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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