消えた球場(25) 小倉到津球場
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Mr.black
2013年03月30日 16:37 visibility5815
JR小倉駅から日豊(にっぽう)本線に乗車、2駅目に「南小倉駅」があります。この駅から西に20分ほど歩いた場所にはかつて「小倉到津球場」がありました。(到津は「いとうづ」と読みます。)
到津球場が造られたのは1923年(大正12年)と大変古い時代のことです。
この土地は門司鉄道局の所有地で、同局の野球部の本拠地として利用されていました。
ただ野球専用ではなく、陸上競技場を無理やり野球場として転用していたのでレフト85m、ライト125m、と長方形の歪なグランド状態だったそうです。
当時はまだNPBは創設されていなかったのでこの球場は門司鉄道局をはじめとする社会人チームの試合や学生野球の大会などに利用されていたようです。
中でも人気だったのは門司鉄道局と八幡製鐵所との対抗戦でした。これは両チームの名称を一文字ずつとって「製門戦」と呼ばれていました。
そしてこの球場が一躍有名になったのは1934年(昭和9年)の日米野球です。それは同年11月26日に行われました。当日はかなり強い雨だったのですが、ベーブ・ルースやルー・ゲーリッグなどを一目見たいという観客が大勢来た為、試合が強行されたということです。
この試合の7回裏にはルースが見事なHRを放ちます。これは予告HRだったと言われています。
写真右は当日のスタメンとスコア。左はHRを放ったルースです。
ところで前述のとおりこの球場はライトが125mという途方もない広さでした。これをそのままで試合したのか、それともある程度レフトと距離を合わせてラッキーゾーンのようなものを設置したのかは調べた限りでは判明しませんでした。
何にせよルースのHRを生で見られたということで観客は熱狂したことでしょう。
その後、NPBが創設されると到津球場でもごく少数ですが、試合が開催されました。
このように大正末期から昭和初期の北九州地区の野球人気に大きな貢献を果たした到津球場。しかし時代の荒波はこの球場を消滅させてしまいました。
第二次世界大戦の最中、到津球場は閉鎖・解体されてしまいました。しかもいつそうなったのかが全く分からないらしいのです。戦時中の動乱期ですからやむを得ないことですが、東京の洲崎球場と同じような運命をたどったということですね。
跡地はその後国鉄~JRの社宅になりました。さらにJRの整理統合の際に社宅は壊され、現在は商業施設と駐車場になっています。社宅当時にはかつての球場の擁壁などがごく一部残っていたらしいのですが、現在はそれらも存在しないようです。
現在の状況はこんなものです。かつて野球場だったという面影は全くありません。
しかしここに到津球場があったという痕跡は残されました。それが下記の写真です。
紳士服の「はるやま」。
右の大きな縦看板の下をご覧ください。茶色い三角の石があるのが見えますでしょうか?
そばに寄るとこうなります。「小倉到津球場跡」という小さな記念碑が平成になってから設置されました。
非常に小さなものですが、それでも「ここに到津球場があった」という貴重な証人になっています。
↑ 球場の簡単な歴史が書かれています。
たとえこんな小さな石碑でも残して、そこに球場の歴史を書いておけば後世の人間でもここに野球場があったということを知ることが出来ます。
ましてこの球場はルースやゲーリッグがプレーした場所なのですからね。
野球場跡地には小さなものでいいからこういう記念碑を残して後の世に伝えていってほしい、これは私がいつも願っていることです。
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