ライオンズ・クラシック(4) 西鉄の晩年

  • Mr.black
    2008年07月01日 18:26 visibility3513


昭和31〜33年に日本シリーズ3連覇を成し遂げ、黄金時代を極めた西鉄。しかしこの栄光も長くは続きませんでした。きっかけは三原監督の辞任でした。33年に日本一になった後、三原監督が大洋ホエールズの監督になるというスクープが報じられ、選手・ファンに動揺が起こります。この頃、西鉄球団と三原監督との間には亀裂が生じていたのです。この原因は様々に憶測されていて自分もいろいろ書物を読んだのですが、よくわかりませんでした。(綱島氏もこれには言及しませんでした。)


3連覇を成し遂げた名将の退団は当然ファンの反発を買い、この時は結局ファンの声に折れた球団に慰留されて三原監督は引き続き翌年も指揮を執りました。しかしこんな状態で勝てる訳も無く、Bクラスに転落。そしてついに西鉄の監督を辞任し、翌昭和35年から大洋の監督に就任しました。


この後、川崎監督を経て中西太監督の時に一回優勝しましたが、これが西鉄ライオンズとしての最後の優勝になりました。(昭和38年。この時は日本シリーズで巨人に敗退。)

そしてこの6年後、あの「黒い霧事件」が報じられ、これが致命傷になってついに西鉄は球団を手放す決意をしました。

これはほんの数年前に知ったのですが、実はこの時「ペプシコーラ」が球団買収に名乗りを上げたそうです。契約がほぼまとまりかけた頃、何と同じパ・リーグで東映フライヤーズが日拓ホームに球団を売却してしまいました。

タイミングが悪かったというしかないでしょう。これを知ったペプシがパ・リーグ球団の経営状態に疑問を抱き、契約はご破算になってしまい、引き取り手が無くなった西鉄球団は福岡野球株式会社という独自に設立された会社に拾われる形でついに消滅してしまいました。新しく誕生した「太平洋クラブ」、「クラウンライター」もわずか数年で資金が滞り、「西武」に買収されて九州を去っていきました。


長々と球団の歴史を書いてきましたが、その理由の一つはたとえ栄光を極めた球団であってもこうやって弱小化し衰退していくことがあり、これをストップさせるのは球団の努力は勿論ですが、ファンの熱意・後押しが不可欠であると思っているからです。西武ドームは今回はクラシックというイベントと日曜日ということもあって大変賑わっていましたが、平日のナイターなどを観ていると非常に閑散としています。ドームの立地条件というものもありますが、ライオンズファンの方々には今後も球場に足を運んで欲しいと願うしだいです。球団が移転・消滅というのは見たくはありません。

 

 

綱島氏の左後方にあるのは見にくいのですが、「太平洋クラブ」の球団旗です。

 


太平洋クラブの有名なアメラグスタイルのユニフォーム。
前も後ろも番号というもの。色はワインレッドということですが、ピンクにしか見えず、個人的にはプロ野球歴代ユニの中でも最悪のデザインだと思っています。(五月女投手のユニ。)

 


クラウンライターのホーム用ユニ。
(真弓選手のユニ。)

 


同じくクラウンのビジター用ユニ。
(大田選手のユニ。)

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