ロビンスと玉江橋球場
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Mr.black
2011年02月22日 18:07 visibility1194
少し前に取り上げた京都の「衣笠球場」と大阪の「堺大浜球場」&「大阪球場」。
この話題を出すともう一つのエピソードも思い出されたのでここに記します。
難波に南海ホークスの本拠地「大阪球場」が造られる以前には大阪府内にちゃんとした設備のプロ野球場はほとんどありませんでした。例外は藤井寺球場や中モズ球場ですが、当時の交通事情では不便な場所だったので大阪市内の交通至便な場所への野球場建設が熱望されていました。
(そのうえ藤井寺球場は当初はプロ野球場という想定はされていませんでした。近鉄球団が結成されたのは球場完成からかなり後年のことです。)
この時、南海ホークスと大陽ロビンスが市内への球場建設に動きました。
南海は前述の大阪球場。
そしてロビンスは大阪市北区の玉江橋付近に球場を、と考えました。
(土地勘の無い方のために説明すると大阪梅田に比較的近い位置です。)
この玉江橋球場構想は阪神と阪急にとっては脅威でした。どちらの球団も甲子園・西宮という自前の球場を持っており、観客の多くは大阪梅田から電車でやって来ていたからです。
梅田近辺に新しくプロ野球場が造られるという計画は死活問題だったのです。
普段はライバルである両球団もこの時ばかりは呉越同舟、揃って反対に回りました。
そして南海の大阪球場建設賛成側に回りました。ミナミの方が地理的に影響がまだ少ないと考えたのでしょう。
この競争は結果的に南海に軍配が上がりました。当時まだ日本に影響を持っていたGHQが南海なんば駅近くにあった専売公社跡地への球場建設を推進したからです。
そして「球場を造るのは一箇所だけ。過当競争になるので二箇所は認められない」という当初の取り決めにより、玉江橋球場は建設出来なくなりました。
この裁定に歯噛みしたロビンスオーナーの田村駒治郎氏。
反撃材料として「ならば一年以内に球場を造れ!もし出来なければうちが先に玉江橋球場を造る!」と息巻いたそうです。大慌ての南海は突貫工事で大阪球場を完成させました。
これにより田村オーナーの玉江橋球場計画は頓挫してしまい、ロビンスは京都を本拠地にせざるを得なかったわけですね。(これが衣笠球場フランチャイズ化に繋がります。)
ところでこの玉江橋球場はいったいどこに建設される予定だったのでしょうか?
結果的に建設されなかったので詳しい予定地は私が調べた限りでは特定できませんでした。
「国鉄(JR)大阪駅から近い場所だった」ということくらいしか分っていません。
また「かつて存在した大坂相撲協会の跡地に建てる計画だった」とも言われていますが、その協会の土地自体がどの辺にあったのかもはっきりしません。
(しかし大坂相撲の力士が北新地~曽根崎周辺で新撰組と乱闘になる事件が幕末に起こっているので、協会の土地が昔この近辺にあったことだけは確かですね。)
現在、川にかかる玉江橋は同じJRでも福島駅(大阪駅の一つ西隣の駅)の方が近いです。
この橋が以前はもう少し大阪駅寄りだったのか?
仮に以前と同じ場所に橋が架かっている場合、球場建設予定地は橋の北側だったのか?それとも橋を渡った南側の「中之島」辺りが予定地だったのか?
考えると夢のあった話です。
しかしその後のエピソードはつらい現実も突きつけています。
大陽ロビンスは親会社の「田村駒」(繊維・紡績業)の経営が急速に悪化。
資金難解消の為に松竹と提携して「松竹ロビンス」になります。
さらにその後田村駒の経営がのっぴきならないところまで落ち込み、同社はついに球団運営から撤退。駒治郎氏は球界から去ります。
やがて松竹は大洋ホエールズと球団合併。球団名は大洋松竹ロビンスへと変わります。略称は洋松ロビンス。
この時「ロビンス」が使われたのは田村氏のたっての願いだったとも言われています。
(駒治郎→駒鳥→ロビンス、というように同氏の名前が由来になっていたからです。)
しかし松竹は球団経営の熱意を急速に失い、やがて撤退。
大洋漁業単独経営になった時に球団名は「ホエールズ」に戻されます。
更に大洋ホエールズ~横浜ベイスターズの球団系譜の中で「ロビンスはあくまでも傍系扱い」として統合前のロビンス球団の勝敗などの成績は加算されていないというのです。
つまり田村駒治郎氏のロビンスは抹殺されてしまったのと同じです。
(ただし洋松ロビンス時代の成績は加算されているとのこと。)
ロビンスと玉江橋球場、田村氏が情熱を注いだものは事実上歴史の中でほとんど消滅してしまいました。
いつか球界復帰を考えていたとも言われる田村オーナー。しかしその願いは実現しませんでした。歴史は時に残酷ですね。
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