野茂英雄さん 野球殿堂入り

 「野球殿堂」に野茂英雄さんが史上最年少45歳4カ月で選出されました。

 この日記は個人的な思い出の羅列になりますが、野茂さんは清原和博さん、桑田真澄さんと並び僕の心の中で「プロ野球の象徴」でした。

 僕はこの3人が引退された後、あまりプロ野球を熱心に見なくなってしまいました。

 3人とも僕の好きな阪神では一度もプレーされませんでしたが、そんなことは関係なく、僕は清原ファンであり、桑田ファンであり、そして野茂ファンであったことを今更ながら認識し直しています。

 野茂さんを初めて知ったのは1989年の新聞報道で「今年のドラフトの目玉は野茂と元木」という記事でした。

 野茂さんの日本代表のユニフォーム姿、確か背番号は18でした・・・の写真を見て「すごく振りかぶるフォーム!かっこいい」と思ったことを鮮明に覚えています。

 ドラフトの中継をラジオで聴いて、近鉄が交渉権を得たことを知った時、「近鉄って本当に勢いがあるなあ。これからは阿波野さんとダブルエースで近鉄の時代到来」と確信したものでした。まさか阿波野さんがその翌年から本来の投球ができなくなるとは・・・。

 まったく蛇足ながら、そのラジオ中継はダイエーが元木大介さんを外れ1位で指名したところで終了になりました。

 それからの野茂フィーバーはすごかった。

 当時はJリーグもなかったので、スポーツニュースは野球一色という感じで、野茂さんの契約金(推定1億2000万円)の話題はもちろん入団会見での素朴な受け答え(「近鉄は、強いという印象はあります。阿波野さんが中心の様だ・・・・」というような淡々とした様子)から入寮の日にユーミンのカセットテープなどを携えて引越された様子など一挙手一投足を報道するという姿勢でした。

 本当に時代を感じます。

 キャンプインして注目の紅白戦初登板では確か大石第ニ朗さんにホームランを打たれたような記憶があります。

 オープン戦でも最初はあまりピリッとしなかったような。

 実はこの頃、ひょっとして野茂さんはプロに適応するには時間がかかるのでは・・・と僕は思いました。

 しかし、幸運にも僕はこの時期、1989年の3月、西京極球場で行われた阪神-近鉄のオープン戦を観に行き、野茂さんを見ることができたのです。

 試合の登板はなく「満員のお客さんに一目姿を見せてあげよう」という仰木監督のいきな計らい…だったと僕は信じているのですが、ブルペンで野茂さんが投げたのです。

 僕は食い入るように見ていました。

 「思ったよりゆったりしたフォームだな」

 と思ったことを覚えています。

 そして、シーズンが開幕。

 4月の半ばが過ぎても野茂さんは可も不可もないピッチングが続いていたように記憶しています。

 しかし、プロ初勝利はすごかった。

 今、データを確認すると4月29日のオリックス戦で当時のプロ野球タイ記録の17奪三振。

 これを皮切りにシーズン終了まで進撃が続きました。

 

 シーズン終わってリーグトップの18勝8敗。287奪三振。防御率2.91。奪三振率10.99。

 この年の野茂さんのおかげで奪三振を「K」で表現することや「奪三振率」という概念を覚えた人は僕だけではなかったはずです。

 オフはもちろん表彰ラッシュ。

 新人王は当然としてリーグMVPと沢村賞も獲得。

 一体、この年の野茂さんはいくつの表彰を受けたことでしょう。

 その後も野茂さんの活躍は続き、1993年までは毎年ハイレベルで安定した成績を残されましたが、チームは優勝できませんでした。

 そして1994年に故障。

 この時、僕はひそかに「これぞ勤続疲労。これからは投球スタイルを変えないと成績を残せない」など生意気なことを考えていました。

 しかし、1994年のオフに僕の陳腐な想像をはるかに超える出来事が・・・・。

 その後の事は敢えて書くこともないでしょう。

 野茂さんの存在なくして今日、メジャーリーグで活躍する日本人の姿があったかどうか・・・。

 いずれ伊良部秀輝さん、あるいは長谷川滋利さんといったアメリカで野球をすることそのものに夢を持っていた方が道をつけたかもしれませんが、野茂さんの存在がなければ日本人選手が太平洋を渡ることは数年遅れていたことは間違いないでしょう。

 野茂英雄。

 まさに野球の英雄。

 これからも野球のために力を尽くされ、我々ファンに夢を見させて下さることでしょう。

 野茂さん、誠におめでとうございます。これからも「夢」を宜しくお願い致します。

 

 

 

 

 

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