キャプテンシーを読んで分かった鳥谷の主将の適正の無さ

  • 虎男
    2017年08月25日 10:49 visibility2547

リーダーとはどんな人物にすれば良いのか。私は、どういうわけか小学校の頃から、学級委員だ、議長だ、体育委員会の委員長だなどと、「自分の希望していない」にもかかわらず、長に持ち上げられてやらされることが多かった。しかし、そういう子供の頃から「長」についてくると、まず会議慣れしてくる。そして議論という物に対して「このような意見を出されたら、その意見が良いのか悪いのか」を「瞬時」に判断する必要があることに気が付いてくる。そして、自分なりの「自己の考え方」をなるべく端的に誰にでもわかるように明確な意見を会議の中で言う必要があるのも心得て来る。だんだんと議論することが面白くなり、そして、自分の意見が会議内で反映されるようになってくると、自分に自信がついてくるものである。こうした経験をしないで一生「平凡」な「役職無しの平凡人間」で終わっていく人たちの方が世の中には多いのに気が付かされる。大人になればなるほど、それは強烈に気が付かされる。

 

若い頃に、こうした経験を経て来ると、いかに上に立ち、矢面に立つことは「責任を持たされて辛いこと」になるかのかが身に染みてわかってくる。そして、上に立っている立場の人間の気持ちも、若い頃に理解ができるようになる。私が草野球チームを創設した時にも「自分が上になって引っ張っていく」と言う覚悟と責任があったのは間違いない。それがなくて、大勢の人のリーダーになると言うようなことは無理だ。そして、過去に自分がリーダーになったことがない人間を抜擢して、大人になってからやってみろと言われたところで「キャプテンとはなんぞや?リーダーの自覚とはなんぞや?」で、おそらく自分の事だけで精いっぱいの人間が上にたったところで、それはリーダーになれるわけがない。リーダーたるもの、大きな視野を持ち、組織の中の人間関係を把握し、そして目標に向かって自分だけでなく他のメンバーを鼓舞し、納得のいく説明をして「組織員としての自覚」を促していく。さらには、自らを律して、手本となるような普段の行動に自覚と注意を持つ人間だろう。リーダーの器以上に組織は大きくならないと言う。そのとおりだ。

 

 

私は鳥谷敬のこの「キャプテンシー」を読ませてもらったが、彼をキャプテンに指名した人間の人を見る目の無さに驚いてもいる。鳥谷のこの本で、自己分析している彼の考え方を見れば「言った手前、自己責任が発生するのであれば、その言葉によって実行した相手が、さらに悪い方向へ進んでしまい、自分の言葉のせいでこうなっとなると、それに対しての責任をさらに問われることになるので、物を相手に言うのは嫌だ」と言う考え方をしていることが35歳と言う分別がついた年齢の時に、そうであるならば「キャプテン指名」をした彼の上司であった和田元監督の人を見る目の無さに驚かされるという事だ。そして、彼のキャプテンシーと言う本で、キャプテンとして、どうあるべきかという事は確固たる決意で述べられているものは一つも無かった。彼は、人を引っ張っていくタイプの人間ではないことをこの本では言っているように思えて仕方が無い。そうであれば、2017年に福留孝介がキャプテンとなったが、彼が新聞やネットで言うような「今は自分がキャプテンだが、そのうち鳥谷にキャプテンを返す」と言っていることは正しいとは言えない。なぜ、鳥谷がこの本を書いたのかは知る由もないが、本来「リーダー」などと言う立場に立たされたことがない彼にとって、重荷であり、どうふるまって良いのかもわからない彼の「心苦しさ」を振り絞ったような本のような気がした。そうであれば、彼にキャプテンを取り上げた金本監督は彼のキャプテンとしての資質の無さに気が付いたとともに、重荷を取り去ってプレーに集中させてあげる形をとったことに、金本監督の人を見る目を感じずにはいられない。それは、広島時代に猛練習と理不尽なしごきを三村監督にされたにもかかわらず、三村監督が金本選手を信頼して試合に使っていたことへの「絆」があったからなのだろう。鳥谷が金本監督とそれだけの「絆」が築けるかは疑問だが、今のままでは無理だろう。なぜなら、鳥谷は野球を引退したら野球に関する事での仕事はしたくないと、この本で公言している。だとすれば無理だろう。鳥谷が2000本安打を打てるようになったのは、金本監督のこのキャプテンポジションをはずしてくれたおかげなのかもしれない。

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