野球は「仕事」
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DIME
2007年01月12日 10:10 visibility123
ちょっと体調もどってきましたので更新してみようかと思います。
しばらく、思ったことをつらつら書くような日記です。
できれば最近評価いただいてるFA補償関連に関してまとめと推察をしようと思うのですが、体調次第です。
こっから本題ですが、昨日の夜のニュース(日テレだったかな)で石垣島から出る大嶺投手のドキュメントやっていました。
その中であの名物監督(名前わすれた)が彼に投げかけた言葉に
「野球は遊びじゃないぞ、仕事だ仕事」
ってのがありました。
これはたぶん野球というものに対して大嶺投手がまだ甘さがあるとかそういう認識を監督が持っているであろう事から出た発言かと思います。
ただ私はこれを聞いて逆にも思いました。
「野球は所詮仕事に過ぎないぞ、選手そのものじゃない」
っていうことです。
野球に対して必要以下の情熱を持てないこと(=遊び半分)も
野球に対して必要以上の情熱を持つこと(仕事の域を超える)のも
私は同じぐらい「プロとして野球に対する良くない接し方」ではないかと思うんですよね。
戦後日本の発展する中で、仕事とはその人を示すアイデンティティのように扱われていたと思います。
ちょっと暴論に言えば「人生とは仕事である」 という認識の蔓延でしょうか。
ただこういう認識がもたらしている末路の虚しさというのは最近社会的な認知度も広まっていると思います。
具体的に言えば「退職したお父さんが自分を見失ってしまっている」というヤツだったり、或いは「若者が就職してもその後すぐにやめてしまう」(その全てがこれが原因だとは思いませんが)ことだったり。
でも仕事=人生としてしまっていればそうなってしまうのはある意味当たり前ですよね。自分がそれまで築き上げてきた仕事というアイデンティティを時間軸のために奪われてしまえば自失になるでしょうし、それまで築き上げてきたアイデンティティと仕事とが触れ合わない事は非常に苦しいでしょうし。
だから私はやっぱり「仕事=人生」というのは基本的に間違っていると思うんです。例外的にそれがOKな人というのはもちろんいますが、彼らは大抵自分が元々もっていたアイデンティティを仕事に結び付けているのであって、仕事をアイデンティティに結び付ける事とは根本的に違うと思います。
こういう戦後日本が背負ってきた仕事に対する認識というものは、当然プロ野球においてもその影響をまぬがれなかったと思います。
長嶋終身名誉監督の「野球とは人生である」という言葉はある意味そのものです。もしこの野球を「自分がやってきた仕事」と置き換えてみたらどうでしょう。「自分がやってきた仕事は人生である」なんていう人は個人的には正直ちょっとぞっとします。まぁこの発言の場合は単純にこう置き換えるのは前後の文脈的にそぐわないですし、彼の場合は本当に人生ほとんど野球のみなんでまだ理解できますが。
でもそうやって仕事をその人のアイデンティティとしてみなしてしまうのはあんまりよろしい結末を導かないぞっていうのは社会全体でわかってきてる問題だと思うんですよね。いま社会はそうじゃない方向へと進もうとしているんじゃないかと思うんです。仕事以外にも生きがいを持ちましょうみたいな感じで。
じゃあ社会に対する影響力のあるプロ野球選手がそういう旧態依然とした目で取り上げられているというのはどうなんだろうって思うんです。
そういう取り扱いをされてしまっているのが「プロ野球は古臭い」とかいう認識が生まれる一因にもなってるんじゃないかと思うんですよね。
「野球に対して行っている行為」がその選手のアイデンティティの全てではないはずです。
にもかかわらず現在のプロ野球を取り巻く環境、特にマスコミの取り上げ方とファンの野球選手に関する目は野球だけがその選手のアイデンティティであるかのように捉えています。
これが結果として前川選手の件のような「野球以外に関する関心の薄さ」にもつながっている。別の結果として成績が出ないことがその選手の人格全てが批判されてしまうような行為につながってしまう。
選手にとっても当然そういうのはマイナスですし、それだけじゃなくてプロ野球そのものがかもし出すイメージの低下にもつながるんじゃないかと思います。
例えば「人生にはお金よりも大切なものがある」っていうのはこれは私も全面的に賛成です、実際そうだと思いますし、そう生きているつもりです。
でも「仕事にはお金よりも大切なものがある」って言われると「え?」って思うわけです。
仕事っていうのは「社会」への参加であるというのは当然だと思いますが、仕事は社会参加であり社会参加とは社会が富を生み出す作業への参加であり、同時に生み出された富の分配権を得ることである、つまりお金というのは社会参加をちゃんとしていますよという証左です。
その「仕事」に「それ以外の何か」を全員で付け加えてしまうことがおかしくなってしまうことなんじゃないかと思うんです。
この部分は野球に限らずですよね、「仕事」と「人生」は別物だと思っている人が「仕事をお金で選択する」行為を当たり前と思ってやっていて、2つにあまり区別を持っていない人がその行為を見れば「人生はお金じゃないぞ」って疑問に感じるわけです。
でも前者の人にしてみたら「そんなのわかってる、っていうか仕事の話なのになんで人生?」ってなっちゃいます。
そりゃもちろん、仕事に人生そのものであるぐらいの認識を持っている人もいると思います。ただそれは唯一絶対の解ではないと思うんです。
私は別に仕事=人生って人がいるだろうしいてもいいとは思いますが、それはどっちかというと多様性を認めているだけです。
やっぱり根本は「仕事は単なる仕事」だと思います、そこに何か追加するのは個人の自由ですから構いませんが、もし全ての人が「仕事=人生」であるような前提で論理づけられている考え方であればそれはやっぱりおかしいなと思うわけです。
具体的に言えばここでは野球選手がそうであることが望ましいかのような考え方って事ですね。
たぶんこのあたりが私の日記読んでる人と私の間で認識に齟齬が出てしまう一つの理由じゃないかなぁとも思います。
「お金よりも大事なものを選んだ」という行為が人生においては正しいかもしれないけど、仕事に対してそうすることは必ずしも正しくない。
逆に「より高いお金を求める」という判断基準を人生の基準として考えれば私だってイヤなヤツに思いますが、仕事の基準として考えれば、逆にそういう基準を持っていないヤツとは仕事は一緒にしたくないなと思います。
下手をすれば、仕事でお金をしっかり考えないことはその契約を行う相手(=球団)の「甘え」を許容する行為にもなりかねないというか、健全な商業活動にたいしてマイナス要因にしかならないと思います。
んで実際に現実のプロ野球ではそういう状況となっているわけで、選手側のそういう行為が逆説的に球団側の経営努力、収益力向上などに対してマイナスに働いてると私には思えます。
本当に球団、ひいては球界を正常な収益を生み出せるビジネスモデルに代えるためには私はこの部分に関しても球団、選手、そしてファンも認識を正常化させなければならないと思います。
こうやって書いてきたのは個人の感覚とか人生観の問題なので完全なる一致は無理だとは思います。
仕事と人生を結びつけることは私は間違っていてそれがいろんな問題を招いているって書いてきましたけどそう思わない人もいると思います。この点は自分の解釈が必ずしも正しいとは限らないと思います、正しいと考えてはいますが。
別にこの点に関して議論して一致を試みようとは思いません。ここに書いてるのはあくまで私の感じている社会観、人生観ですし、そういう観点から私はプロ野球を見ていてプロ野球の改善方法という面白い題材をいじっているってことです。
そりゃあ私だってこれでも日本人ですから「お金より大事なことを選ぶ」なんて浪花節はキライじゃないですよ、そういうの聞けばかっこいいとか思うわけですよ。でもやっぱり「ちょっと待て、それは本当にプロ野球のためになってるか?」とも思ってしまうんですよね。
義理人情って言うのはあくまで例外的な行動であって義理人情を前提とするような論理というのは、旧日本軍の精神論に近い危うさを感じるわけです。どんだけ士気が高かろうとも彼我の圧倒的物量差は埋められません。それと同じでどれだけ義理人情に厚かろうとも、義理人情じゃ食っていけないんですよね、それに甘えない収益構造をつくらないと生きてけません。
スポーツは人生になぞらえられます。でもそこでなぞっているのは普遍的意味でのスポーツであって、そのスポーツを行う人、特にそれでお金を得る人(=プロ)の人生全部がそのスポーツになることじゃないと思うんです。
はっきりいってそんな人生送ってる人が本当に魅力的に映るでしょうか、将来の目標になるでしょうか。私はならないんじゃないかなぁと思います。
- 事務局に通報しました。
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