事後立法と民衆感情。

  • DIME
    2007年12月20日 13:32 visibility228

(12月21日追記)
以下の内容に関して、私の知識不足でちょっと不正確な部分が有ります。その旨予めお詫びします。正確なものに関してはそっち系の場所でご確認ください。

野球に関係の無い話から始めて申し訳ないのですが、薬害C型肝炎問題の和解交渉が決裂したそうです、まぁ当然の帰結だとは思いますが。
感情的に被害者の方たちに同情を禁じえませんが、同時に理性的に政府が一律救済は出来ないと決断したことには素晴らしいと思っています。この難しい情勢(=人気の急低下)の中で多くの有権者から反発が出るであろう事を、原則を枉げずに守りきったからです。
その原則というのが、事後立法、法律用語で言えば法の不遡及ということになります。
これは簡単に言えば、その行為があったあとに定められた法律によって処罰してはならないということ、法治国家におけるもっとも重要な原則の1つです。

たとえば、2007年12月現在、非加熱の血液製剤によってC型肝炎が引き起こされたというのはほぼ確定的な事実として認知されています。じゃあ現時点でそれがわかったからといって、その投与から引き起こされた肝炎の全てに政府の責任があるといいだすのは、完全に事後立法です。
政府に責任があるのは、政府側が確定的な事実として認知した、或いは認知することが可能であった時点からです。具体的には今回の和解案で裁判所が認めていた期間です。この期間は司法が判断すべきものであり、行政が司法を飛び越えてそれを蔑ろにするのは三権分立に反します。

どこからどこまでに国が責任を持っていると言えるのかは遡及して考えてはいけません、裁判所も政府も「責任のある期間」を限定するのは、そうしないと法治国家としての根幹が揺れるからです。
未来の見える目を持つ人間など存在しません、現時点で政府に責任があるとわかったからといって、それを遡って「わかっていなければならなかった、責任がある」と言い出すのは結果論です。
これに関して原告者側は1964年当時から感染の危険性は予知できたと主張しているようですが、裁判所側のこれまでの判例では意見が分かれているものの、原告側の解釈が受け入れられた判例は有りません。和解が入れられればその期間が司法判断となりますが、和解が入れられなければ最終的には最高裁判決がそれとなるでしょう。その内容が現時点から更に広がるとは思えません。
結局どこから責任があるのかどうかという点にはいろいろ異論があるでしょうし、何が正しいかは現時点では司法判断で決定されていません。
だからもっと広く責任がある、最大化した責任を政府が負うべきと主張するのならば理解できます、でもそうでなくそれを差別だ線引きだと感情的な問題に安易に置き換えるのは正しくないです、そこを争うべきであるならば感情に訴えるのではなく、論理的な証明を持って争わなければもう法治国家ではなくなります。

今後さらに医療が進歩していけば、現時点では最良の治療方法だと思われていた手法が薬禍を引き起こす失敗だったといわれるかも知れません、そういう事例はくさるほど有ります。
もし仮に、ここで責任があると認定できる期間を無視して、全員一律で救済するという前例を作ってしまうと、今後そういう事例が起きた時に全て国は責任を負わなければならなくなります。そうなればどうなるか、国は責任を回避するために先進的な治療を認可しなくなります、他の国で安定的な数の事例が報告され安全が確かめられない限り、国は動けなくなる。
それは本当に国民のためですか、公共の福祉の最大化に繋がることですか、違うと思います。

現在、「差別をしないで」と被害者たちが言っていますが、これは個人個人の差別ではなく、責任の区別です。
人の命を差別しているのではなく、政府が負うべき責任を区別して明確化しているのです。差別と区別は違います。
結果的に結果だけを見れば、被害者全員に同じ補償が行くようにすると言う事は出来ます、政府側がそういう案を提示するでしょうし、たぶん今の提示もそうなっていると思います。でもそれが政府に出来る限界ですし、それ以上踏み込んで一律に責任を認めるのは政府として絶対に間違っています。
ここで国の責任を無秩序に認め、事後立法で国の責任を裁いてしまう前例を作ってしまえば、国はリスクを考えて何もできなくなってしまいます。

あまりにも政府は正しい、けれど多くの人は感情的には反対でしょう、私だって感情だけで言えばそっちです、でも感情で決めてはならないことが多数あります。
今回の件についても感情論的な反対意見が噴出するでしょう、特にマスコミのレベルは非常に低いというか大衆に迎合することを第一にしているところばかりですから、格好のネタが増えたと感情に乗っかるのでしょうけどね。
せめて、わかってる人、或いはわからなければいけない立場にある人だけはちゃんと理性的に物事を見て欲しい。そういう意味で民主党関係者の政治戦術ありきの反対意見などちょっと悲しいものがあるんですが。

被害者側の考え方にも納得できない部分が有ります、結局差別だ線引きだと言葉を変えていますが、結局は国の責任期間の最大化を求めているように見えてしまいます。「新しい薬害被害を出さないため」という主張をしているようですが、それを考えるつもりなら国政に出てください、この裁判で判断されるべき事柄では有りません、裁判にかこつけて主張したい誰かが後から手引きしてるようにさえ思えます。
第一義に考えなければならないのは被害者救済ではないのですか。本当に被害者の幅広い救済を考えるのであれば、国に責任がある期間に関しては折れ、実質的に責任期間に関係なく救済がされる今回の和解案を飲むべきではありませんか、報道で目にする限り「全員一律の救済」は事実上果たされている案に見えるのですが・・・。正直、被害者側の本音はどこにあるのかちょっとわからない部分もあります。
これまでの判例からしても無条件で国の責任を認める事は司法判断としても有りそうに無いのは確かですし、上記の理由から責任期間だけは被害者側が折れなければ、政府側は最終的な判決例を残さなければなりませんから、最高裁まで行くのは確定的。
それがわかっていて、自分たちでも時間が無いと主張しているにもかかわらず、なぜ「名」を取り「実」を取らないのか、わかりません。

誤解の無いように申し添えておきますが、こういう薬禍というのは起きてしまうことでありしょうがない犠牲だとか、被害者を軽視するようなそういう考え方は有りませんので。
死んだ祖父がC型肝炎でしたしね、彼の場合は注射のうち回しですけど。だから結構身近な問題です、私にとっても。


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同じことが言えるのが、現在のMLBの薬物問題です。
やってはならないと決まってから後のことにのみ選手には責任が有ります、それより以前のことに関しては現在の基準で裁いてはいけません。

例えば、圧縮バット、現在のプロ野球では禁止されていますが、禁止されていない時期も有りました、現在でも五輪関連の国際試合では認められています。今度の予選でも発注はしたけど使わなかったらしいです。
じゃあ、今のプロ野球で認められていないからといって、昔の圧縮バットを使っていた選手の記録は不正なものだとして抹消すべきなのか、五輪は正しく無い野球だとするべきなのか、おかしいですよね。
なんで薬物はダメで、圧縮バットはよいのか。もちろん人体に影響があるからとか理由の区別をはかるかもしれませんが、それは後付の理由に過ぎません、それを言い出したら投手の肩や肘という人体に影響があるので投手は本気で投げてはいけないのも同じでしょう。
結局あっちはダメでこっちはOKといっているのは感情的な理由に過ぎません、理性的な判断基準ではない。それに根ざして物事を決めていくと、ひずみと矛盾が溜まっていきどこかで壊れます。

私は別に薬物を使った選手に何の問題も無いとは思っていません。でも同時に禁止されていなかった以上、全ての手法を検討し選びうる選択肢の中からその時点でもっともよいと思われた選択肢として薬物使用を選んだということも理解は出来ます。
大事なのは、ここで感情的に判断して、プロ野球というビジネスそのものの質を下げてしまうようなことをファンはしてはいけないということです、そうでなくてもプロ野球は大変な時期なんですから、その協力者であるはずのファンが感情論だけで暴走するのは何のプラスにもなりません。

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