
少年時代7
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マッキ
2011年05月03日 00:57 visibility47
自分が野球を覚えた昭和48年、最初のファンが背番号3でした。
そのころ、たまたま、学校で、何かの番号を決める時に自分が3番で、
今、とある地質学の教授をしているI君が1番でした。
I君は、大学に入る2次試験の面接で、尊敬する人物に王貞治氏をあげて、
面接官が王貞治氏を知らなかったことをごく普通に話していました。
I君は、身長が中学の時に180cmも超えていて、お父さんが野球経験者で、
自分が野球を覚えた小学校のころから、毎日、そのお父さんとピッチング練習を
していました。
でもI君は、身長と練習の割には、力が足りず、最後は身体能力のある人に
エースの座を譲りました。
高校に入ってからはテニス部で坊主頭でした。
きっと野球をしたかったのだろうなあと思いました。
自分の高校時代、I君のお父さんとは、何度か、通学の乗り継ぎ駅で一緒になり、
野球の話や、一度、駅のたち食いそばをご馳走になりました。
数年前にI君と札幌で会いましたが、飲みつぶれてほとんど覚えていません。
多分、同じようなことを言っていたかもしれません。
今も、年賀状のやりとりはしています。
(I君の両親は、自分の実家の町から離れても)
だから、背番号3番が好きです。
本能的に好きです。
オーソドックスな1番よりも。
TV中継が途中で終わり、ラジオを中継を父と一緒聴いていました。
そして、ヒーローインタビューで初めて聴いた声は、かん高くて、
いまだそのギャップから離れられません。
高校時代に対戦した東北高校の声がかん高くて、仙台商が漁師?
市場の声のようにどすの利いた低い声で、今の自分があります。
自分の高校は少人数で、練習中は声を出しまくっていないと、先輩
からの激と自分でも声を出していないいとと思う状態だったので、練習
=声でした。
試合に集中しようとして、無言になったらだめだと実感しています。
昨日のファイターズ戦、30日、29日の試合の自分のチームの試合で。
さあ、行こうぜ!!!
さあ、こい!!!
ナイス選、ナイスボール、ナイスバッティング、OK!!!いける!!!
ほんとチームが12人の高校1年夏休みから春までがすべてです。
その後、定期戦の延長サヨナラ勝ち、夏の準々決勝進出でした。
12人に、漫画のキャプテン、プレイボールの谷口のような妥協は許せないし、
そう身についた伊藤さんと自分の上のセカンドの丸井キャプテンのような箭内
さんがいました。(中学の時に、投手だったし、捕手が中学の後輩だったので、
配球にも口を挟んでいました。谷口を超越した努力のエース氏家さんがいま
した。(今は、警察官で、そのままですね)
そういえば、イガラシそのままの体の小さい負けん気の強い厳しい顔をの
加藤さんがいました。雨の日の練習のティーすごく嫌でした。箭内さんも同じ
でしたが、ピンポイントじゃないと・・・。ほんとうにおきにいくことをこのティー
打撃のあげかただけで必要だと思います。
これがゲッツーのトスにつがります。
個性の強いいっこ上の4人でした。
まだ一人、いました。大野さん、デストラーゼみたい色黒の背の高い、温厚
そうで最後まで本音を出さない方でした。
先輩5人だけでも、タレント的なメンバーでした。
そこに、捕手とサードとセンターとライト兼投手(自分の世代のエース)と、サブで、
ショートの堀越と、ファーストのまさとセカンドの自分ですべてのメンバーでした。
2年生なっても、うかうかしていたら、下から5人くらいでしたがきました。
しっかりと1,2番を後輩が入り、最後は、3年春に、けが、指の骨折で、自分は
セカンドのポジションを渡しました。
弟が逆に、2年生で、けがのおかげで夏のレギュラーなったりと平等になったかも
と思います。
本音がひとつあります。
自分の高校に入ってくる出身中学でそこそこの経験をしたした人たちが、目先の
欲?県に2校しかない男子ソフトボールに流れたことです。
練習時間が短いし、簡単にインターハイ、国体にいけました。
その打算は、どうだったのか、考える余裕もなく、野球に入れたのでよかったです。
ソフトボールの選択肢を考えず済んでです。
なかったです。選択肢にソフトボールは。
陸上長距離か、捨て身でラグビーに興味はありました。
3年浪人して、入学早々しっかりと背番号3の方の講演会に参加できました。
合コンとバッティングしていて、周りからはもったいないとかばかだとか言われ
ましたが。
医学部主催の講演会でした。
予定時間をはるかに越える熱演でした。
身振り手振りで。
86年の春です。
確か、江川が秋までもったら必ず優勝できるといっていましたが、
江川がもたなかったか予想とおり、まさかのカープの逆転Vでした。
ほんとうに、いつでも俺のところに打球がこいと思っていたら、
そのとおりに打球が来ていた話を真剣に語っていたのを思い出
します。
ほんとうに、貴重な機会を思い出しました。
86年の医学部の学際だから、今ころだったと思います。
その後、ずっと背番号は3です。
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- 事務局に通報しました。
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