☆甲子園出場校をめぐる旅〜千葉県勢初の甲子園勝利校〜
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鶴丸 深志’
2010年11月23日 20:55 visibility601
この内容は、ラボ統合後の初日記として記述したかったのですが・・・。
千葉県の中北部に位置し、同県の県庁所在地で、日本で13番目となる人口約96万人を有する政令指定都市である千葉市に、県立千葉高校があります。
県千葉は、1878年(明治11)に明治維新の激動の中、教育改革が進められた時期に千葉中学校として開校された県内で二番目に古い歴史を持つ高校で、2010年の進学実績では東大22名、京大8名、一橋大8名、東京医科歯科大3名、千葉大40名を輩出した関東屈指の進学校です。
野球部は、1897年(明治30年)に創部され、県内では佐倉高校に次ぐ伝統を持ち、甲子園には夏6回出場し、甲子園通算成績は2勝6敗、最高成績がベスト8です。
ユニフォームは、白地に胸に「CHIBA」のマークで、帽子は黒で「C」のマークだと記憶しております。
千葉県内の高校は、帽子に「C」のマークはたくさんありますが・・・。
県千葉といえば、旧制・千葉中時代の1935年(昭和10年)、第21回夏の大会に3度目の出場をしたときに、石川工に18安打の猛攻で16-9で快勝し、甲子園初勝利を挙げました。同時にこれが千葉県勢としての甲子園初勝利になりました。
また、その翌年も夏の大会に出場し、二回戦からの登場となり、初戦で山形中を8-1で圧倒しベスト8に進出、準々決勝では強豪・平安中に0-10と敗れましたが、「千葉中強し」と評されました。同時にこれが千葉県勢初の8強入りとなりました。
この頃は、南関東大会として千葉と茨城の上位2校が参加し、その優勝校が甲子園に出場するという形式をとっていました。
この南関東大会と県千葉には因縁があったようです。
元々南関東大会は、千葉市と水戸市で交互に開催され、野球部のある千葉と茨城の学校が参加していました。
1928年(昭和3年)の南関東大会は千葉中グラウンドで行われ、このとき、長生中、成田中に勝ち地元の反感をかっていた水戸商と千葉中の試合で投石騒ぎが起きた。
1929年(昭和4年)の南関東大会は水戸商グラウンドで行われ、前年の報復に燃える水戸商応援団は、水戸商が千葉中に6-7で敗れた瞬間グラウンドになだれ込み、千葉中ナインを校庭の片隅に追い詰め、殴りかかった。警察も出動、検事局に連行される者が続出するという事件にまで発展してしまった。
これに懲りた両県は、翌年から持ち回り制度を止め、まず両県で予選を行い、上位2校を代表として送り、南関東大会は4校で神宮球場、早稲田の戸塚球場で行うことに変更した。
その後、1934年(昭和9年)から再び開催場所を千葉と茨城での持ち回りに戻した。
ところが、翌1935年(昭和10年)に水戸水府球場で開催された南関東大会で、千葉中の遊撃手がイレギュラーバウンドの原因となった小石を三塁側に投げ捨てたところ、投石と誤解され、茨城工(現・水戸工)応援団が異常に興奮し、さらにそれが球場全体にまで広がり、閉会式も行えない状況になった。
千葉中ナインは、警察官に守られて退場し、優勝旗は翌日に茨城県庁に受け取りに行ったようである。
これらの事件により、予選の地区割りを変更し、翌年の1936年(昭和11年)から、千葉県は神奈川県・埼玉県と組んでの南関東大会へ、茨城県は栃木県・群馬県と組んでの北関東大会へ参加することとなった。
その後1959年(昭和34年)、東関東大会と名称を変えて、再び千葉と茨城は雌雄を決することとなる。
これに類似するようなケースは、東海大会に参加していた静岡県と愛知県にもあったようである。
静岡県の静岡中(現・静岡)と愛知県の愛知一中(現・旭丘)の間には度々もめごとが起こり、静岡県は、1923年(大正12年)東京が単独代表となったのを機に、それまで東京と京浜大会を行っていた神奈川と組んでの神静大会、その後山梨が加わっての甲神静大会、先ほど記述した南関東大会編成変えで神奈川が抜けての山静大会と、地区をまたいでの複雑な動きをしている。
参考までに、地区をまたいでの大会は他に、福井県と滋賀県の福滋大会(1974年〜1977年)があります。
最後に、夏の大会には各都道府県から代表校が出場するのは当たり前になっているが、そうなったのは1978年(昭和53年)の第60回大会からで、まだ30数年しかたっていない。
夏の第1回大会から単独で出場校をだしているのは、全国で1県のみ、それは、報徳学園など数々の強豪ひしめく兵庫県です。
どうして兵庫県だけが、夏の第1回大会から単独で出場しているのかに関しては、ラボ統合後にきっと誰かが記述してくれると思います。
以上です。
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