☆野球部史の写真から~帽子に一本線、二本線、三本線~
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鶴丸 深志’
2020年06月23日 19:00 visibility4100
1932年の写真
一宮中(愛知県立一宮高校)
※帽子に一本線
1911年の写真
愛知一中(愛知県立旭丘高校)
※帽子に二本線
1929年の写真
市岡中(大阪府立市岡高校)
※帽子に三本線
白い帽子に黒の三本線は大阪の市岡高校、白い帽子に黒の二本線は愛知の旭丘高校、この伝統は現在も受け継がれている。(一部マニアの方のフレーズ)
では、帽子に一本線の学校はあったのだろうか?
愛知の一宮高校野球部史を見てみると、一本線の帽子をかぶった選手の写真が掲載されている(現在は帽子のマークは替わっている)。少なくとも、昭和初期から戦前頃までは、帽子に一本線、二本線、三本線の学校が存在していたことになる。
1910年頃の写真
東京府立二中(東京都立立川高校)
1908年の写真
堺中(大阪府立三国丘高校)
なぜ、帽子に一本線、二本線、三本線なのか?
詳しく分かっているのは、市岡高校の「三本線」で、「大阪市内の第三中学」という意味がある。(一部マニアの方からの説明)
しかし、第2回夏の全国大会前までは「二本線」だったようだ。東京府立二中、堺中の写真でも分かるように、明治後期から大正初期頃にかけて、帽子に二本線が全国的に流行っていた。制帽(二条の白線帽)を真似ての二本線だったのではないだろうか?
市岡高校は、前述の理由で制帽が先に二本線から三本線に替わり、その後、初の全国大会出場を機に、「全国大会に出るのだから制帽とそろえよう」ということで「三本線」に替わった。長野師範との試合が「三本線」のデビュー戦となった。
1906年の写真
水戸中(茨城県立水戸第一高校)
アタシは、この伝統ある「三本線」は、他にはないだろうと思っていた。ところが、茨城の水戸一高野球部史を見てみると、1906年の写真に「三本線」があった(現在は帽子のマークは替わっている)。市岡高校に野球部が創部されたのは1906年、その頃はまだ三本線ではなかった。
ということは、「三本線」の元祖は、水戸一高だったのだろうか?
それと、水戸一高は茨城県内最初の旧制中学であるにもかかわらず、「一本線」でなく「三本線」だったのも謎である。
もしかすると、元々は線の本数に意味はなく、単に制帽(二条の白線帽あるいは三条の白線帽)を真似ただけなのかも知れない。
以上です。
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