☆白球の残像 ~「悲運の成東」創部88年目の悲願~

 

昭和40年代、千葉県の高校野球はレベルが高く、夏の全国大会で優勝2回、準優勝1回、8強2回と黄金期を迎えていた。

その時代、千葉県立成東高校野球部を率いていたのが、松戸健監督である。
1962年(昭和37年)、松戸健氏は成東高校野球部監督に就任。14年間の監督生活で、全国レベルの銚子商や習志野が厚い壁となり、成東は甲子園に一度も出場することができなかった。

 

1971年(昭和46年)夏の千葉大会は、センバツ4強、春の県大会も制した木更津中央(現・木更津総合)が優勝候補の筆頭であった。
しかし、大会に入ると2人の超高校級の投手に注目が集まった。それは、成東の鈴木孝政(元中日)と銚子商の根本(元大洋)であった。
二人は2年生ながら、豪速球に加えコントロールも良く、共に無失点で勝ち進み準決勝で勝利した両校が東関東大会に駒を進めた(当時は1県1代表ではなかった)。
ところが、鈴木は東関東大会の会場である水戸へと出発する当日、スクイズ練習のため打席に入っていたが、右上腕に投球が当たり、思うように動かせなくなってしまった。東関東大会初戦の竜ヶ崎一戦の先発には及川をたて、その及川も好投を見せたが、接戦の末、成東は敗れてしまった。
一方、銚子商の根本は取手一に完封勝ち、代表決定戦の竜ヶ崎一戦の1失点のみで甲子園出場を決め、両者の明暗を分ける形となった。
そして、甲子園に出場した銚子商はベスト8まで勝ち進んだ。

 

ライバル二人が3年生になった1972年(昭和47年)、春季千葉大会の準決勝で両雄が激突した。
成東は、センバツ4強の銚子商に 2 - 0 で勝利し、春の千葉を制した。
春季関東大会に出場した成東は、センバツ準優勝の日大三にも勝利し、見事に準優勝を飾った。
鈴木が登板した試合は負けることがなく、成東が甲子園に一番近いと言われていた。

 

迎えた夏の千葉大会でも、成東と銚子商は予想通り両投手の活躍で順当に勝ち上がった。
しかし、前年とは違い、両校は準決勝での直接対決となり、どちらかが敗退することになる。
千葉大会準決勝の会場となった千葉市の天台球場は、球場始まって以来という25,000人の大観衆となった。センバツ4強の銚子商と剛腕・鈴木投手を擁する成東の激突で、札止めになってもファンは後から押し寄せ、入口のシャッターも壊されてしまうほどの人気となった。
試合は予想通り、鈴木と根本の息づまる投手戦となり、両チームともチャンスを掴むことすら難しい展開となった。
0 - 0 で迎えた8回裏、1死から打者根本は追い込まれてからウエスト気味の鈴木のストレートを大根切りで左中間深く弾き返し、三塁打となった。
1死三塁。この試合最初で最後かもしれないチャンス到来。絶好のスクイズのチャンスでもあるが、鈴木の豪速球はバントしても小フライになってしまう可能性が強い。
銚子商はカウント 1 - 2 から内角高めの速球をスクイズしたが、やはり小フライとなり、三塁走者の足も止まった。
しかし一塁側にダッシュしていた鈴木は逆モーションとなり、打球は鈴木の右にポトリと落ちた。三塁走者の根本が両手を上げてホームイン。
今でも千葉県球史に残る名勝負は銚子商が 1 - 0 で勝利した。


銚子商と成東の夏の戦いは、この年の1972年(昭和47年)から1975年(昭和50年)まで4年連続1点差で成東が敗れることとなる(銚子商 1 - 0 成東、銚子商 1 - 0 成東、銚子商 1 - 0 成東、銚子商 2 - 1 成東)。
そしていつしか、人々は成東高校を「悲運の成東」と呼ぶようになった。

 

 

それから時が経ち、迎えた1989年の7月27日、元号が平成に変わった夏の千葉大会準々決勝の組み合せは、銚子商と成東の試合となった。
因縁の対決は、予想通り手に汗握る大熱戦となった。

この年の成東は、大会屈指の大型右腕・押尾健一投手(元ヤクルト)を擁していた。延長13回の末、2 - 1 で銚子商相手に劇的なサヨナラ勝利を収めた。
続く準決勝では、習志野に 6 - 2 で勝利し、拓大紅陵との決勝戦を迎えることとなった。

 

決勝戦も緊迫した投手戦となり、一進一退の攻防の中、成東が何とか1点をもぎ取り、逃げ切りの様相を呈してきた。
1点差で迎えた9回裏、最後のバッターもツーストライクまで追い込んだ。
「あと一人」から「あと一球」へと応援の声が変わった。
押尾は、キャッチャー八角のサインをのぞく。
カーブのサインだった。
押尾は大きく頷いた。
押尾は渾身のカーブを投げ込んだ。
そしてバットは、大きく空を切った。
・・・一瞬、球場全体の時間が止まったかのようだった。
ほんの少しの間をおいて、球場全体が大歓声に包まれた。
波打つスタンド、あちこちで抱き合い、涙し、万歳の嵐が巻き起こっていた。
 “悲運の成東” が創部88年目にして初の甲子園切符を手にした瞬間であった。


さらにドラマには続きがあった。この時の千葉県高野連会長が、なんと松戸健氏その人だった。甲子園出場を決めた成東ナインに対して、優勝旗を授与する松戸会長。監督時代の無念を知っている千葉の高校野球ファンは、スタンドから大きな拍手を送り、感動的な閉会式になったことは今でも語り草になっている。

 

 

 

 

 

成東高校は1900年(明治33年)に千葉県佐倉中学校成東分校として創立された伝統を有し、偏差値は理数科64、普通科62の進学校である。

野球部は1902年(明治35年)に創部され、県内では佐倉、県千葉、成田、銚子商、木更津、安房、茂原樟陽に次いで、佐原、長生と並ぶ歴史を有する。

夏の全国大会予選には、県内では銚子商、千葉師範、県千葉、成田に次いで、1922年(大正11年)第8回大会予選(関東大会)に初参加した。結果は、初戦で成田中に 16 - 5 で勝利し、予選初勝利も挙げた。
夏の予選通算成績は159勝88敗、優勝1回、準優勝4回である。

 

 

伝統ある成東高校の甲子園復活に活躍に期待したい。

 

 

 

 

 

以上です。

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