☆センバツへの道 ~創部118年、悲願の初優勝・耐久高校~

和歌山県に野球が伝わったのは1897年(明治30年)で、和歌山中(桐蔭)に赴任した坂口昴、香川直勝の両教師が、和歌山城の砂の丸広場でボールとバット用意して指導をしたといわれている。1899年(明治32年)年には、大阪の岸和田中(岸和田)、桃山中(桃山学院)と試合をした記録がある。
続いて、1903年(明治36年)には田辺中(田辺)、1905年(明治38年)には耐久中(耐久)、1913年(大正2年)には高野山中(高野山)で創部された。
1915年(大正4年)の第1回全国中等学校優勝野球大会の予選は、大阪、奈良との関西予選に入り、和歌山中、高野山中、耐久中の3校が参加した。そして、全国大会には和歌山中が出場した。

尚、第1回全国大会予選に参加した名門・桐蔭は、その後一度も欠かすことなく予選に参加し続けている。

 

 

 

高校野球秋季和歌山大会の決勝戦は、耐久高校と田辺高校という伝統ある公立校同士の対戦となった。一部マニアにはたまらない一戦である。

結果は、和歌山県で三番目に古い野球部の耐久高校が、和歌山県で二番目に古い野球部の田辺高校に 5 - 3 で勝利し、悲願の初優勝を飾った。

耐久高校は春夏通じて甲子園出場はなく、県1位での秋季近畿大会出場で甲子園に一歩近づいた。

 

耐久高校は和歌山県有田郡湯浅町に所在し、学校の起源は1852年(嘉永5年)に幕末の国際情勢に備える人材養成のために開かれた稽古場「耐久社」まで遡ることができ、全国でも有数の歴史を誇る。「耐久社」の名には、学舎がいつまでも永く続き「自学自労」の精神に満ち溢れた人材が育つようにとの願いが込められている。
野球部は1905年(明治38年)に創部され、和歌山県内では桐蔭、田辺に次ぐ歴史を有する。
夏の全国大会予選には、1915年(大正4年)の記念すべき第1回大会予選(関西大会)に、和歌山県勢としては桐蔭、高野山中とともに初参加した。結果は、市岡中(市岡)に 2 - 4 で敗退となった。
夏の予選初勝利は、1916年(大正5年)の第2回大会予選(紀和大会)で、初戦の和歌山師範に 24 - 8 で勝利した。続く準決勝の試合は、高野山中に 5 - 17 で敗退となった。
夏の予選通算成績は75勝95敗である。

 

伝統ある耐久高校、悲願の甲子園出場に期待したい。

 

 

 

 

 

以上です。

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