高松×松山闘争史〜野球拳誕生前後
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仲本
2014年04月27日 14:22 visibility1135
さて、野球拳ついでにいろいろ調べたので、当時の北四国の野球史をお得意の中等学校野球で振り返ってみる。
愛媛の野球伝来は明治21〜22年頃、旧制一高の正岡子規が帰省中に河東碧梧桐らに手ほどきをしたのがはじめとされ、出身校の松山中学から西条、今治、宇和島の各中学、さらに松山商業へ広がった。
香川の野球伝来は明治27年初夏、スポーツ好きの高松中学・野村弥三郎校長が野球解説書を取り寄せ、翌年には高松中学に野球部が発足。丸亀、大川、三豊の各中学、香川師範、そして香川商業へと伝わっていったとされる。
大正4年、第1回の全国中等学校優勝野球大会が開催された。四国予選には香川5校、徳島5校が参加し、決勝は順当に高松中学と香川商業との対戦になった。延長10回にもつれ込んだ試合は11-11の同点の場面で高松中学が棄権。大会史には投手疲労のためとの記述があるが、死球の判定でもめたためだという話もある。
愛媛勢は第2回大会から松山中学が参加した。
第4回大会では松山商業、今治中学、北予中学が初参加。ベスト4に愛媛勢3校が進出するという躍進を見せ、四国代表権も今治中学が獲得した(大量リードしていたはずの丸亀中学が謎の棄権をしている)が、米騒動で全国大会が中止された。
第5回夏は香川勢が参加せず、四国代表は愛媛3徳島1の計4校で争われ、松山商業が初めて代表権を勝ち取った。それ以来、松山商業が夏の全国大会連続出場を6まで伸ばしたのが1924(大正13)年の夏、つまりここまでが野球拳誕生前史となる。
この年の春の選抜第1回大会では高松商業が優勝。翌年春は連覇を狙った高松商業を松山商業が決勝で下して優勝。さらにその夏は高松商業が四国準決勝で松山商業を倒し、四国7連覇に待ったをかけた。勢いを駆って高松商業は全国大会で初優勝…と、両県の代表チームが全国をリードした時期だった。
夏の高校野球大会史には、1926(大正15)年の記事としてこんな話が載っている。
『四国では高松と松山の抗争は激しく、また大会は優勝旗のある県の県庁所在地で行う旨の申合せがあって、大正9年以来高松勢はいつも松山に乗り込んで苦い目にあっていた。それが高松開催となって、高松側のお返しなど万一の問題が起こりかねない気配。』
前年の四国大会で高松商業が勝ったため、四国大会は7年ぶりに高松での開催となったのだった。
『そこで事故を防ごうと応援団を廃止し、両校(高松中学・高松商業)野球部の名で、「われら両校の名誉のために観覧者諸君は常に静粛を保ち、遠来の選手を待つに礼を以てせられたい」とのポスターで市民にも呼びかけた。そのため大会は立派に運営された。苦い経験の高松側には容易に出来ないことだが、以来四国大会は円満に行われた。』
これが一つの美談として紹介されているところに当時の雰囲気が見てとれる。おらが町のチームへの応援はそれほど激しかった。
戦後、大会は参加校数と人気の増加に応じて地区割が見直されたが、香川・愛媛は1県1代表制が採用されるまで北四国代表を争った。北四国大会は愛媛13勝、香川10勝だった。
(参考:「全国高等学校野球選手権大会五十年史」朝日新聞社)
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