☆茨城県勢初の甲子園優勝校 取手市近隣高校親善野球大会観戦記~取手二高~

1984年(昭59年)の夏は茨城県にとって夢のような出来事であった。

この年の第66回夏の選手権大会は「KKコンビ擁するPLを倒すチームは現れるか?」に注目が集まった。この大会に茨城代表として取手二高が出場した。


取手二は初戦でいきなり強豪の箕島と対戦。試合は箕島のエース嶋田が7回表まで取手二を無得点に抑え 2 - 0 とリード。その裏、箕島に待望の追加点が入り、勝負あったかに見えた。

しかし迎えた8回表、取手二は無死2塁のチャンス。打順が8、9番と下がるので、バントで送る作戦も考えられたが、木内監督は8番の塙に強攻を命じた。これが的中、タイムリースリーベースとなり、流れは一気に取手二に傾き、その後も猛攻が続きあっとう間に5点を奪って逆転勝利。

勢いに乗った取手二は、その後も福岡大大濠を 8 - 1、鹿児島商工を 7 - 5、鎮西を 18 - 6 で破り、初の決勝に進出した。

 

決勝は夏連覇を狙うPL学園との対戦となった。

取手二が 4 - 1 と3点リードで迎えた8回裏、PLは清原からの打順。取手二のエース石田は3点差の余裕からか、超スローボールを投げ観衆がどよめく。しかし、清原は二度目のスローボールをレフト前に弾き返す。続く桑田は倒れ1死1塁となったが、6番北口の打球は左中間のフェンスを直撃、打球が転々とする間に清原がホームイン。打った北口は3塁に止まったが、中継に入ったショート吉田が投げなくてもいいホームに大暴投。打たれたショックからか、石田がバックアップに入っておらず、PLに2点が入り、スコアは 4 - 3 となり試合はわからなくなった。
そして、1点差のまま9回裏のPLの攻撃を迎えた。先頭バッターは、この日トップに起用された清水哲。清水哲は2球目のストレートを強振。打球はレフトスタンドへ吸い込まれ、遂に逆転のPLが追い付いた。
完全に我を失った石田は、続く松本の初球にデッドボール。取手二ナインは動揺していた。しかし、ただ1人冷静だったのが、ベンチの木内監督であった。すくっと立ち上がり、左打者の鈴木にワンポイントでライトを守っていた左変則派の柏葉を起用した。これには誰もが意表をつかれた。鈴木はバント、ボールはキャッチャー前に転がる。キャッチャーの中島は思い切って2塁へ投げた。そして、これがアウトとなる。続く打者が清原、桑田だっただけに、このプレーは大きかったといえよう。
1死1塁となって、また木内監督は動いた。ライトへ回した石田を再びマウンドに送った。これを意気に感じた石田は、清原を内角のボール球で三振に取った。さらに桑田をサードゴロに仕留めた。
これで流れは変わった。延長10回表の攻撃は当たっている2番の佐々木から。佐々木はストレートをセンター前に運ぶ。続く下田が送り、続く桑原はフォアボールで歩いて、1死1、2塁のチャンスを迎えた。ここでバッターは、先程好プレーを見せた中島。中島は高めのボール球を大根切り。打球はレフトスタンドに飛び込み、取手二が勝負を決めた。春夏通じて初めて優勝旗が茨城に届いた。

夏の大会で桑田と清原がいたPL学園が敗れたのは、3年間でこの試合だけだった。

 

 

 

 

 

 

 

この取手二の試合を観戦したいと思い、取手市近隣高校親善野球大会が開催されている藤代スポーツセンター野球場に向け、愛車のレクサスCT200hを走らせた。

取手二の試合を観戦するのは何年ぶりだろうか?

ユニフォームはスカイブルー、胸には「取手二高」と大きく書かれていた。

試合の方は、藤代紫水を相手に 2 - 4 で惜しくも敗れた。(スコアボードの8回表は1点です)

 

取手二高は、1922年(大正11年)に茨城県北相馬郡北総実修学校女子部として創立され、その後、女子校となり、男女共学になった1949年(昭和24年)から現在の校名となった。

野球部は1950年(昭和25年)に創部された。
夏の全国大会予選には、1951年(昭和26年)第33回大会予選(北関東大会)に初参加し、対戦相手は竜ヶ崎一に決まっていたが、棄権試合となった。
夏の全国大会予選初勝利は、1952年(昭和27年)第34回大会予選(北関東大会)で、古河一に 10 - 9 で勝利した。
夏の予選通算成績は107勝65敗1分、優勝4回、準優勝3回である。

 

 

果たして、取手二高が甲子園に復活する日は来るのだろうか?

 

 

 

 

 

以上です。

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