ライオンズ・クラシック(3) 西鉄の歴史

  • Mr.black
    2008年07月01日 14:14 visibility1832


前回の日記で書いた歴史講演。この中の一部を抜粋して紹介しようと思います。


講演の前半はプロ野球が1リーグから2リーグになっていく経緯と、その流れの中でいかに西鉄球団が誕生したか、という内容でした。よくご存知の方もいらっしゃるとは思いますが、書いておきます。


昭和24年、読売の正力松太郎氏がコミッショナーに就任。この時に「日本もアメリカのように2リーグ制にしたい」とコメント。当時は全8チームだったので2リーグにするためには当然チームを増やさないといけませんでした。この時、いち早く球団設立に名乗りを上げたのが「西日本鉄道」すなわち「西鉄」です。
(西鉄は戦前に一度球団を持っていたことがあったので、何としても復活させたかったようです。)


ところが当時はまだ戦後4年しか経過していない時期。GHQに戦犯として睨まれていた正力氏と読売新聞社との間には微妙な溝がありました。そのためこの2リーグに関しても冷淡な素振りを見せました。
腰を上げてくれない読売本社に業を煮やした正力氏。ここでライバル社である毎日新聞を担ぎ上げてきました。新リーグの中心球団に据える腹でした。当時読売は関東、毎日は関西が基盤。この関係から関西の私鉄である阪急、南海が毎日側につき、同じく西側で同業者でもあった新球団である近鉄、西鉄もこれに加わりました。パ・リーグが別名「鉄道リーグ」とも言われたのはこういう経緯があったからだそうです。ただ、阪神だけは「阪神ー巨人戦」というドル箱を失いたくないという理由で読売側につきました。これが各球団の今日の運命の分かれ道になりました。


こういう経緯から両リーグの関係は決して良好なものではなく、お互い腹に一物ある状態でスタートしました。この犠牲になった球団がありました。「西日本パイレーツ」。西鉄と同じく福岡が地盤の新聞社「西日本新聞」が持っていた球団です。本来はこの会社、同じ福岡の西鉄と組んで二社で一球団を運営していくつもりでした。しかし当時の地方新聞社は中央(東京・大阪など)から記事を貰って掲載するという方式だったのでいわば上下関係で読売に逆らうことが出来ず、結果として西鉄と袂を分かち、自社単独でセ・リーグに参加せざるを得ませんでした。それが西日本パイレーツ。しかし同じ福岡に2球団というのははなから無理な話。たちまち資金繰りに困り、解散の危機に陥りました。生き残りを図り、当初の計画通り西鉄と合併しました。こうして誕生したのが「西鉄ライオンズ」です。(それ以前は西鉄クリッパース。)


しかしこの時、「西日本の選手は球団の所属ではなく、セ・リーグの所属だ」と読売が横ヤリを入れて強引に西日本の主力選手の数人を引っこ抜いたそうです。この時の一連の読売の横暴に恨みを持った西鉄と西日本は、巨人監督の座を奪われ、同じように読売に遺恨を持つ三原脩氏の監督招聘へと動いた、というのが西鉄・三原監督と巨人・水原監督の因縁の対決へと繋がっていくのです。運命の面白さではないでしょうか?


後半は三原監督率いる西鉄ライオンズがいかにして黄金時代を築いていったかという話でした。この間の球団名の変遷、同じくユニフォームのデザイン変更の歴史など、綱島氏の研究した内容が盛りだくさんで非常に楽しくかつ勉強になりました。関東在住だったら全講演を聴きたいくらいです。長くなりましたが、ここで終了いたします。
(一枚目の写真は正力松太郎氏。)

 


戦前に存在した西鉄球団。ユニの左胸には西鉄のマークが入っています。


しかし戦争が始まり、すぐに解散になってしまいました。
2リーグ制にいち早く名乗りを上げたのはこれが原因です。

 


パ・リーグの最初の加盟球団の旗。
左上から横に順番に阪急・南海・東急・毎日・西鉄・近鉄・大映の7球団。

 

 

同じくセ・リーグ8球団の旗。
左上から順に読売・阪神・中日・松竹・大洋・西日本・広島・国鉄。



わずか一年で消滅した「西日本パイレーツ」の小島利男監督。
左は監督のご子息。
この監督は選手兼任で、例の巨人藤本英雄投手の史上初のパーフェクトゲームの時の西日本の最終打者になってしまった人です。
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