消えた球場(29) 兼六園球場
-
Mr.black
2013年09月21日 10:58 visibility5417
現在石川県のメイン球場は前回紹介した「県立野球場」です。
この球場は金沢の北西部の外れに1974年に完成したのですが、それ以前には別な場所にメイン球場がありました。
それが「県立兼六園球場」です。その名の通り日本三大庭園「兼六園」の南東部にありました。
それ以前は陸軍の練兵所だったそうで、戦後の1947年(昭和22年)の石川国体に合わせて野球場が建設されました。
当初のグランドは非常に狭くアマの試合でもHRがよく出ており、その為のちに拡張されました。
しかしそれでも狭かったグランド。
1949年(昭和24年)の「巨人ー大映戦」では両チーム合わせて13本のHRが飛び出すという大乱打戦。結局15-13という大味なスコアで巨人の勝ち。この試合の勝利投手川崎徳次氏は「最多失点の勝利投手」という記録を残しているようです。(失点はまんま13点。つまりボコボコに打たれながらも完投したということですね。汗)
さすがに県側もこれではと思ったのでしょう。翌年にはグランドを拡張しました。
ところが今度は逆に拡張し過ぎでHRが出なくなったそうです。そこで更に後年縮小工事をしました。頃合いというものを考えないといけませんね。(苦笑)
やがて球場が老朽化してきたこと、近隣が開発されたこと、などで違う場所に新しい球場の建設が求められるようになりました。
この時、金沢市郊外の緑地公園が新球場建設の候補地になりました。
当時この西部緑地公園に県産業展示館が建っており、それを中心とした博覧会が行われていたそうです。この博覧会の跡地に野球場が建設されることになりました。それが現在の「県立野球場」です。(注:県産業展示館は現存。)
これによって役目を終えた兼六園球場は閉鎖・解体されました。それは1973年のシーズンオフ後だったということです。(県立球場の完成は翌1974年)
兼六園球場の跡地には厚生年金会館が建設されました。
その後「北陸電力会館 本田の森ホール」となります。
上の写真が「本田の森ホール」。ところでこのホールはかつてここが野球場であったと思わせる構造になっています。
ホールが半円形をしているのです。
このあたりがかつての外野スタンド外周だそうです。
それで考えるとこのあたりが昔のグランドだったと想像出来ます。
周辺を散策した限りではここがかつて「兼六園球場」であったことを示す記念碑や掲示板・銘鈑などはありませんでした。
もしかしたらホールのどこかにそういった物が掲げられているかもしれませんが、この日は何か催し物があったようで外には長い行列が出来ていました。
時間が無かったのでやむなくそのまま去ることにしました。
ところで私が小さかった頃の曖昧な記憶ですが、TVの試合中継で実況アナが「本日はここ金沢兼六園球場から〇〇ー△△戦をお送りいたします」と語っていたような・・・・・。
当時関西で地方開催の試合がTV中継されるとしたら巨人戦か阪神戦しかなかったのでおそらくどちらかの主催ゲームだったと思います。
でも何しろ小学校低学年の頃なので本当にそれが「兼六園球場」だったのかどうかは確信がありません。球場の姿もはっきり覚えていません。
見たかもしれないし見ていないかもしれない、ある種幻のような地方球場「兼六園球場」。
現在の県立球場が老朽化した時、次はどんな球場が作られるでしょうか?
でもその頃の私は遠征出来ない状態になっているか、もしかしたらこの世に存在していないかもしれませんがね。(苦笑)
- favorite16 chat1 visibility5417
-
navigate_before 前の記事
プロ野球ユニフォーム図鑑
2013年8月30日 -
次の記事 navigate_next
消えた球場(28) センバツ発祥の地 山本球場(JR東海八事球場)
2013年9月13日
- 事務局に通報しました。
chat コメント 件