阪急VS阪神 (球場対決)

  • Mr.black
    2011年01月26日 11:57 visibility803

村上ファンドによる株買収問題などがあり、現在では同じグループ会社になっている阪急と阪神。しかしかつては同じエリアで争うライバル会社でした。


(※)今回の話は多少推測や噂・伝聞もあるので実話というよりは「フィクション性のある物語」程度にお考えください。

 

1913年(大正4年)、全国中等学校優勝野球大会が開催されました。会場は大阪の豊中グラウンド。このグラウンドは阪急(当時は箕面有馬電気軌道)が所有していました。

 


しかし大会は主催者側の予想を遥かに上回る人気となり、詰め掛けた観衆を収容し切れず、たちまち運営困難となりました。

そこで朝日新聞社が別な会場を求めたところ、阪神が手を挙げたのです。そして会場は阪神沿線の鳴尾球場に。


これは阪急サイドとしては非常な屈辱だったようです。それは移転の理由が単に球場の収容数の問題だけではなく、やって来る観客の輸送の問題点も指摘されたからです。(つまりこの当時の輸送力は阪神の方が阪急を上回っていたということ。)


そしてこの移転は野球が好きだったという小林一三氏の鼻も明かされたようなものです。 


 

阪急は反撃に出ます。宝塚に大きな野球場を建設したのです。(宝塚球場)

表向きは温泉や歌劇とセットでこの周辺を一大リゾート地にするというものでしたが、別な理由としては

「万一、阪神が鳴尾で運営に失敗したら中等学校野球を取り戻してやる」というものがあったようです。


それが実際に起こりました。第9回大会の準決勝で大勢の観客がグランドになだれ込み、試合が一時中断されたのです。もはや鳴尾では観客をさばき切れなくなっていたのですね。

 

 

「このままでは阪急の宝塚球場に中等学校野球大会を持って行かれるかもしれない」と危惧を抱いた阪神。


そこで急遽甲子園球場を建設したのです。この工事は昼夜を問わず突貫工事で行われ、信じられない短期間で球場が完成しました。それを支えたのは甲子園の建設地周辺の川砂と砂利・バラスでした。元々この辺りは川の流域だったからですね。


まだ日本にプロ野球がちゃんと根付いていない状況で学生野球の会場に甲子園のような巨大スタジアムを建設したのは「阪急に大会奪取を諦めさせるのが目的だった」とも噂されています。


事実、同じ頃阪急は一度解散した職業野球団「芝浦協会」を再結集して「宝塚運動協会」を組織し、宝塚球場で試合を行わせています。おそらく甲子園というビッグプロジェクトを見て大会奪取を諦めたのでしょう。代わりに小林氏が計画したのが「日本にプロ野球リーグを作る」というものでした。


しかし結局この壮大な計画は頓挫。

時代を経て読売が主体となってプロ野球が作られると阪神は「大阪タイガース」を結成。

これをみて阪急も負けじと「阪急軍」(大阪阪急野球協会)を結成。さらに西宮球場を建設します。

甲子園と同じ西宮市に球場を建設したのも対抗心だったと推測できます。

 

こうやってみると阪急と阪神のライバル心が中等学校野球(高校野球)とプロ野球の発展に大きく貢献したことが分ります。

これら全ての現場を巡ってきて先人たちの熱意を感じました。

関西の主だった球場とその跡地を巡った私の旅路も先日の鳴尾で一通り完結しました。

(厳密にはあと一箇所残っているのですが、それは後日に徘徊します。)


次の命題に向かって動き出そうと思っています。こちらはハードルが高いのでいつになるかは分りませんが非常に貴重な話もあるので何とか実現したいものです。

 

chat コメント 

コメントをもっと見る

通報するとLaBOLA事務局に報告されます。
全ての通報に対応できるとは限りませんので、予めご了承ください。

  • 事務局に通報しました。