消えた球場(18) 鳴尾

  • Mr.black
    2011年01月25日 18:46 visibility4512

阪神甲子園駅を下車。甲子園球場を通り過ぎて南へ徒歩約20分ほどで「浜甲子園運動公園」にたどり着きます。この公園内に「鳴尾球場跡地」の記念碑が建てられています。

 

 
↑ リニュール時に写真が横向きになってしまいました。

 

「鳴尾球場」・・・・・高校野球ファンの方ならばご存知でしょう。前身の「全国中等学校優勝野球大会」が開催されていた球場です。


記念すべき第1回大会は大阪の豊中グラウンドで始まったのですが、その名のとおり単なるグラウンドだったので観客の収容数が少なく、第2回目には早くも運営が困難になりました。


そこで朝日新聞社の求めに応じて阪神が西宮の鳴尾競馬場の走路の内側に東西2面のグランドを作りました。これが鳴尾球場だったわけですね。

 

 

「学生野球は教育の一環」と主催者側が昔から声高らかに主張するわりにはその会場に競馬場を使うというのは個人的には非常に矛盾を感じるのですが、当時は野球場が少なかったので仕方なかった面もありますね。

 

それはともかくこの球場が2面だったのには意味がありました。当時大会参加にかかる費用は全て出場校の自己負担だったらしいのです。その負担を軽減するために大会期間を5日間で短く収める必要があったわけですね。


ただ、なにしろ競馬場の走路の内側ということで常設のスタンドは造ることができず、野球の時だけ設置する木造8段の仮設スタンドだったそうです。


また上の写真のようにグランドが近接しているため、両方にスタンドを造ることはできず、対戦カードによってスタンドを東や西に移動させていたということです。

 

 

 

鳴尾で初めて大会が開催されたのは1917年(大正6年)の第3回大会からでした。

この大会で初めて選手の入場行進が行われ、現在に至っているようです。


そしてもうひとつ特筆すべきはこの大会では敗者復活戦という制度が採られ、この制度のお陰で一度負けながら優勝した学校ができたわけです。愛知一中、現在の旭丘高校です。大会史の中で敗者復活優勝は後にも先にもこの1回だけです。(間もなく廃止。)

 

鳴尾ではその後第9回まで大会が行われたのですが、年々増える観客を収容し切れなくなってきたので甲子園が建設され、その完成とともに役目を終えた鳴尾球場は姿を消しました。

 

現在記念碑がある公園は当時の競馬場があった場所よりも若干南に位置がずれています。

実際には公園北側の浜甲子園団地の辺りが競馬場だったそうで、すなわち球場もそこにあったわけです。

 

 

↑ 球場があったと思われる辺りの団地。 


 

甲子園が出来る前の周辺図。中央下の競馬場が鳴尾球場があった場所。

その上の川の分岐点の白っぽい丸の辺りに甲子園球場が造られました。

 

 

その図面と照らし合わせると、この道路が川だったようです。(枝川)

奥に甲子園の照明塔がかすかに見えています。

 

 

町名には枝川という川の名前が残されています。ここにも「土地に歴史あり」ですね。(写真が横向き。汗)


競馬場の中に造られたという稀有な歴史を持っていた鳴尾球場。

小さな豊中から巨大な甲子園へと大会が肥大化する過渡期を支えた貴重な野球場です。


また、この豊中~鳴尾~甲子園という球場の変遷には別な物語もあります。

それはまた別な機会で書こうと思っています。

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