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 私が野球に興味を持ったきっかけは、桑田真澄さん、そして清原和博さんのPL学園高校が昭和60年の夏の甲子園を制したことだった。
 当時9歳だった私は、地元滋賀県代表甲西高校からホームランを放った清原選手にたちまち魅せられた。
 そして、同年のプロ野球ドラフト会議。
 私は野球が織りなす人生ドラマのとりこになり。、それから年々ディープな野球ファンになっていったつもりだ。
 プロ入り後の清原選手。
 1年目の活躍。
 ホームランを重ねるごとに、大げさでなく日本列島は沸騰していった。
 「一体何本のホームランを打つのだろう。新人記録を更新するのではないか?」
 結果は31本塁打と新人記録タイに終わりましたが堂々の打率3割をマーク。
 そして、西武ライオンズは3敗1分けから4連勝して日本シリーズ制覇。
 清原選手は福の神。
 また、確かこの年、清原選手は何かの表彰で受けた副賞の食品を福祉のために寄付したという報道をみた。
 「社会のためにためらわず行動できる人」
 私は同じ10代の清原選手を心から尊敬していた。
 そういえばたまに女性関係のスキャンダルが週刊誌に出ることもあった。
 10歳の私はそれを見て「どうせ週刊誌が書いた嘘だろ。そんなこと清原選手にあるはずがない」と思っていた。私はこどもだった。この点に限って言えば・・・今では「きっとそこに書かれていたことの数倍は遊んでおられたのだろうな」と思う。それで全然OKだと思う。
 翌昭和62年。
 清原選手の成績は少し下がった。
 まさに「2年目のジンクス」。
 でもチームは2年連続日本一。
 清原選手が日本シリーズ最終戦9回の守備で涙をみせたのはこの時だった。
 野球にあまり関心なかった私の祖母さえも
 「清原は巨人に行かなくて花が咲いた」
 と感慨深げに言った。
 昭和63年。
 日本シリーズ、ナゴヤ球場で放ったホームランは新幹線の高架を直撃したという噂でもちきりになった。
 「やはり清原はすごい」
 平成元年。
 西武ライオンズは優勝を逃した。
 しかし、それ以上にショックだったのは、清原選手が試合中に相手投手に暴行を行い、連続出場記録が途切れてしまったことだった。
 新聞には思わせぶりに「2日間の出場停止だから2日間試合が中止になれば連続出場記録は途切れない」と書いてあったので、私は真剣に雨天を祈った。
 平成2年。
 強い強い西武ライオンズ。日本シリーズは巨人を4タテで一蹴。
 そして清原選手は史上最年少、そしてデビューから最速の年俸1億円獲得。
 だれもが1990年代は清原選手の全盛期だと確信していた。
 しかし、平成3年以降の清原選手は本当に苦しそうに見えた。
 明らかに本来の能力を発揮できないでいるように思えた。
 それが歯がゆかった。悔しかった。
 それでも応援せずにいられなかった。
 平成9年、桑田真澄選手の復活勝利の時、清原選手が巨人移籍後初ホームランを打って2人でお立ち台に立った。
 それを友達の下宿のテレビで見ていて心から「よかった。こういう日が来ることを信じていた」と思った。
 実際、清原選手を球場で見たのはオリックス時代の1試合だけだった。
 それも、大きな犠牲フライ1本見られただけ。
 それでもその犠牲フライは一生忘れられないものになった。
 「ついに清原選手を見たぞ!清原選手が打点を挙げてくれたぞ!」
 私は満足して大阪ドームをあとにできた。
 平成26年に尊敬する桑田真澄さんの講演を聴く機会があった。
 私は桑田さんに握手して頂き、サインも頂いた。
 このとき、桑田さんは清原さんの巨人時代のユニフォームを持って来て下さり、誇らしげに
 「清原のユニフォームです。大きいでしょ」
 と笑顔で話されていた。
 あの時、もう清原さんとは連絡を取り合わない関係になっておられたのだな・・・。
 桑田さん、あの時もつらかっただろうな。
 
 この度、本当に清原和博さんが「容疑者」になってしまい、悔しくて、寂しい。
 
 桑田さんが言われるように、自分の人生に代打はいない。
 清原さんがこれからの人生で精進され奇跡の逆転満塁ホームランを打って下さることを信じたい。
 私も若い頃にあきらめた夢を今、もう一度追いかけている。
 私も自分のバットで人生の逆転ホームランを打たなければいけない。
 いつか清原さんと一緒に「夢のお立ち台」に立てるように、私も頑張って行く!
 

 
 

 

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