インテリ先生のベースボール

僕は中学受験のために一年間塾に通った。



もう四半世紀以上前のことになってしまうが今でもあの一年のことは鮮やかに心に残っている。



楽しい一年だったのだ。



塾の経営者は横山先生(仮名)と言って、厳しいながらもユーモアがあった。



先生は経営者でありながら授業も持って下さり、僕は先生の算数と理科の授業を受けていた。



先生は京都府福知山市の出身で京都大学を卒業されていた。



先生は時折、ご自分の高校時代の受験勉強の話をして下さった。



サランラップで参考書を包み入浴しながら勉強されていたこと、トイレに暗記すべき事項を書いたカードを張り出してわずかな時間も無駄にしなかったことなどを聞かせて頂き「すごい。そこまでしないと京都大学には行けないのか！」と僕は感心した。



先生は科学者を目指して京都大学に進学されたが大学では「高校時代から外国で出版された理科の参考書を個人輸入して勉強していた」というような秀才に出会い、早々と科学者は断念、一転し塾の経営者を目指した・・・という話をして下さったこともあった。



しかし僕はその話をきいて「外国の参考書が読めるようになるぐらい勉強しろよ」ということが本当は先生が伝えたいことなのだと思った。


当初僕は先生は勉強ばかりされていて運動は苦手な方だったのだろうと思っていた。



しかし先生はたまに「この問題、愛媛の愛光中学か・・・ロッテの愛甲なら解けるかな」とかプロ野球ネタの冗談をぼそっと言われることがあった。野球が好きな僕はそれを聞くのが楽しみだった。



夏休みの期間に塾の親子面談があった。



母は先生に「先生のおかげで学校の成績も良くなったが副教科が苦手で・・・」 と僕のことをこぼした。


すると先生は「副教科も大事だぞ。先生は副教科も含めオール５だった」 と真剣な表情で言われた。僕は半信半疑だった。



その夏休みのことだったと思う。



塾で一つの事件が起きた。

何が原因だったのか、塾の先生方が２つのグループに分かれてしまい、約半分の先生が塾を退職し新しい塾を始められたのだ。



友達も新しい塾に移る人が出た。しかし僕は横山先生の塾に残った。



その事件以後、横山先生は前より少しだけではあったが優しくなり、授業の中でぽつりと言われる冗談の質も変わってきたように感じた。



ある秋の土曜日。



僕は授業の休憩時間、横山先生と一緒にいた。



「秋だなぁ。京大の学園祭思い出すよ。今でもやってるのか分からないが、学園祭で野球大会があってね・・・、僕はピッチャーでノーヒットノーランをしたんだよ」



の思いがけない言葉に僕は先生の顔を見た。



先生は美味しそうにラッキーストライクの煙をくゆらせながら



「本当だよ。先生はこうみえても強肩でバッターボックスから外野フェンスの向こうまでボールを投げ入れられる程だったんだよ」



と言い目を細くして笑われた。



僕は先生は本当のことを言われていると思った。



そして先生は単に勉強だけをしてきた人ではなく、おそらく野球をしながら勉強も必死で頑張り京大合格を勝ち取った人なんだろうと思った。



おりしも、その頃、京大野球部は沢田誠さんという投打に優れた選手の存在で注目を浴びていた。



沢田選手を見に南海や広島のスカウトがやって来たという話が地元の新聞に載った。



水野監督率いる京大のアメリカンフットボール部の人気も高かった。



僕の心の中で京都大学や京大生のイメージが変わった。



漠然と京大への憧れが芽生えた。



僕は一年間、横山先生の指導を受けて志望校に合格した。



先生にお祝いの握手をして頂いたことが忘れられない。


しかし僕は先生の様に京大生になるどころか、京大を受験する力すらないまま流されるように大学まで内部進学をし、どこか不完全燃焼の青春を終えた。



今、あの時の沢田選手のようにプロから注目を浴びる選手が京大にいる。



その選手、田中英祐さんにはプロを志望されるならぜひ夢を果たして頂きたいと思う。



そして、僕は横山先生を思い出す。



先生もきっと京大の田中選手を今僕と同じように応援されているだろう。



横山先生、僕は京大には行けなかったけど頑張って生きています。安心して下さい。