我的愛球史 第48話 「タテジマを着たムース」


 (写真と記事は関係ありません)
1998年秋。

「阪神次期監督に野村克也氏」

 僕らファンは驚きとともに、納得、安堵、期待、喜び・・・そして一抹の不安という複雑な感情が胸の中を波立つことを抑えられませんでした。

 「あのノムさんが虎に来るの!良かった、やっぱり、阪神は優勝目指す気なんだ。しかし、来てくれるのかな・・・」

 野村監督はヤクルトを90年代を象徴する強いチームに育成しながら、97年頃から退任が取りざたされるなど、決して球団から絶対的に優遇されているわけではない・・・という印象がありました。

 そして98年に9年間指揮を取ったヤクルトを離れることが現実となり、阪神が野村監督を迎える機がやってきたわけです。

 野村監督は報道が始まった当初は慎重な発言に終始さえており、健康問題などが心配されましたが、監督就任についての報道が続く中で

 「わしは典型的な関西人」

 という発言が飛び出しました。これを聞いた時、僕は

 「あ、これは受諾してくれるんだ。これがノムさんの関西愛、阪神愛!ノムさんなりのOKサイン」

 と、確信しました・・・って、誰でも気付きますね。

 野村克也。

 1935年、京都府竹野郡網野町(現京丹後市)生まれ。

 1954年、峰山高校から南海ホークスにテスト入団。

 1957年、開幕からマスクを被り初のホームラン王獲得。

 1961年から8年連続ホームラン王獲得。

 1965年、戦後初の三冠王達成。

 1970年、選手兼任監督就任。

 1978年、ロッテ移籍、翌年は西武へ遺跡。

 1980年、現役引退。

 1989年、野球殿堂入り。

 3017試合出場、2901安打、657本塁打、1988打点、通算打率.277。しかも鈍足と言われているのに盗塁117!!

 球史に輝く大選手です。

 監督としても、まずは南海を選手兼任でリーグ優勝させ、1990年に就任したヤクルトではリーグ優勝4度、日本一3度と申し分ない実績。

 阪神は伝統球団らしく、監督の多くは阪神OBから選んできましたが、野村監督ならOBであろうがなかろうが圧倒的な実績の前にそんな慣習は問う方が無粋に思えました。

 野村監督は根っからの野球人で現場の人。

 要請を受けた時から決意は固まっていたのかもしれません。

 かくして、監督就任が正式発表され、野村フィーバーが関西に吹き荒れました。

 「人間、進歩するっちゅうのは変るということや。意識が変れば行動が変る。行動が変れば習慣が変わる。習慣が変われば人生も変るんや・・・。」

 ・・・で、あってたでしょうか?僕は週刊ベースボールの記事でこの言葉を読んだ時、僕は大いに感動したのでした。

 長沼石根・著「球界に咲いた月見草 野村克也物語」(アサヒ文庫)、まだ本棚にあります。

 さあ、野村阪神で優勝だ!黄金時代だ!

 しかし、日本球界屈指の名将、野村監督も想像以上の大きな壁にぶち当たることになるのでした。

 

 




































































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