我的愛球史 第28話 七夕の奇跡

 平成3年、高校に入学した僕はフェンシング部に入部し、毎日練習に明け暮れていました。

 中学をほぼ帰宅部で通した僕にとって、高校の運動部生活は新鮮で楽しい反面、体力的に厳しいものでした。

 くたくたになって家に帰ると机に向かう体力も気力も尽き果てていました。

 当然、プロ野球中継を見る時間もゆとりも減って行きました。

 そんな中で定期試験一週間前の部活が休みになる期間は貴重な勉強タイム・・・のはずが、プロ野球観戦タイムになってしまったことがありました。

 忘れもしない平成3年7月7日。

 東京ドームでの巨人ー阪神戦。

 阪神は先発猪俣隆投手が崩れ2回で降板。

 3回からのマウンドには仲田幸司投手があがりました。

 この年の仲田投手は制球が例年以上に定まらなくて開幕から不調。

 本来の先発ではなく中継ぎでの登板が増えていました。

 ああ、今日も阪神は負けか・・・まあ、いいや、試験前だし勉強しよう。

 そう思って立ちながらテレビを見ていると、仲田投手は登板したその回を0に抑える。

 お、もう1イニング見ようかな。

 また抑えた!ではもう1イニング・・・。

 何時しか僕はテレビの前に座り込み、勉強そっちのけで観戦モードに。

 仲田投手はその後も無失点でゲームは阪神が追いつき9回終わって2−2で延長戦。

 延長戦に入っても仲田投手は巨人のバッターを快刀乱麻で切り伏せて行き、全く打たれる気配が無い。

 こうして迎えた延長13回。

 阪神マーベル・ウィン選手が巨人桑田真澄投手から特大の7号ホームラン。

 これが決勝点となって3-2で阪神勝利!

 テレビの中継が終わってしまい、最後はラジオで勝利を知ったような記憶があります。

 僕は歓喜に酔いしれました。

 そして、翌日の数学の試験は玉砕しました・・・。

 仲田投手はこの年の勝利はこの1勝のみの1勝7敗という不本意な成績に終わりました。

 しかし、この悔しさは無駄ではなかった。

 翌92年はキャンプでの広岡達朗臨時コーチの指導が効を奏したのか開幕からローテーションの中心として大活躍。

 14勝12敗の堂々たる成績で見事エースとしての役割を果たしました。

 奪三振194はリーグ1位で初の個人タイトルまで獲得。

 正に充実の年。

 チームは惜しくも優勝を逃しましたが、我々ファンは阪神の久しぶりの快進撃に溜飲を下しました。

 そして、その後の仲田投手は・・・。

 恵まれた素質からすれば十分に開花できないまま現役生活を終えた・・・と評されても止む得ないような結果に終わりました(プロ通算57勝99敗 防御率4.06)。

 しかし、平成3年7月7日の神がかり的なピッチングと平成4年の我々に十分夢を見せてくれたシーズン通した活躍は、タイガースの暗黒時代に見えた光明として我々の記憶に深く残っています。

 ありがとう、仲田幸司投手。

 あなたは私が初めて観に行ったプロ野球の試合(1990年、西京極球場での近鉄とのオープン戦)での先発投手だった。

 ゆえに、私が初めて見た阪神のピッチャーだった。

 あの時のマウンドでの躍動は忘れません。


 さて、さて、平成3年の阪神といえば・・・9月10日の東京ドームでの巨人戦。

 代打で登場したプロ初出場の若者が香田勲男投手から痛烈なヒットを放ち、初打席初安打初打点という上々のスタートを切りました。

 その若者は後々、阪神だけでなく、プロ野球界全体のスーパーヒーローに成長することになるのです・・・。
 

 

 

 

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