我的愛球史 第6話 タイガースの黄昏


 1985年優勝の熱気が冷めやらない中、タイガースの1986年が開幕しました。

 このシーズンから僕は野球をきっちり見るようになりました。

 小学校5年生だった僕の野球の楽しみ方は、まず毎朝、スポーツ欄で野球の記事をチェックすることでした。

 テレビで見ることはあまりしませんでした。

 祖母と妹があまり野球に興味がないので、家でナイター中継をみることがあまりなかったのです。

 しかし、この記事を書くために色々調べる中で分かったのですが、僕は4月19日の中日ー阪神戦の中継を見ていた記憶が残っていました。確かこの日は阪神の大勝。六甲颪が番組の最後で流れていたのを覚えています。これが僕のプロ野球中継の一番古い記憶です。

 なぜ、こんなことに気付いたかと言うと、掛布雅之選手の負傷した日を調べていたからです。

 1986年4月20日日曜日、掛布選手は中日のルーキーでアンダースローの斎藤学投手から手首にデッドボールを受けました。

 これが原因で掛布選手は引退までバッテイングの調子を取り戻せなかった・・・と言われています。

 ともあれ、この年の掛布選手は試合の欠場も目立った上に、打撃成績は.252、9本塁打、34打点と大不振。前年が.300、40本塁打、108打点と大爆発だっただけにチームにとっても4番打者の不本意な成績は結果的に低迷に直結してしましました。

 掛布選手ひとりに責任を被ってもらうことは不適切でしょう。

 あえて他の主力打者だった岡田彰布選手と真弓明信選手の85年と86年の成績を書かせて頂くと、

 岡田 .342→.268、35本塁打→26本塁打、101打点→70打点
 真弓 .322→.307、34本塁打→28本塁打、84打点→60打点

 と、下降しています。

 その中でバース選手は素晴しかった。
 
 .350→.389、54本塁打→47本塁打、134打点→109打点

 と、ひとり気を吐いた感があります。堂々の成績で2年連続三冠王。ロッテオリオンズの落合
博満選手も85,86年と2年連続の三冠王だったので、この2年間は偉大な打者の脂の乗り切った時期を見ることができたことになります。

 阪神にとっては悔しいシーズンになりましたが、バース選手の連続試合本塁打記録への挑戦が話題になったり、ルーキー遠山昭治選手の活躍があったり、見所は作ってくれました。

 そうです、遠山選手の活躍は嬉しかった。

 初勝利の時、岡田選手にベンチの前で祝福されている写真が新聞に載りました。これは目に焼きついています。

 打たれると「遠山火ダルマ」と出たりして・・・。悔しかったな、表現に怖さも感じた、だって「火ダルマ」でっせ。新聞の野球記事の見出しの独特の言い回しに驚いたり、感心したり・・・、子どもの目から見るとこういうのも最初は衝撃だったのです。

 あと、この年のシーンで印象に残っているのが、掛布選手がやっと甲子園の巨人戦でホームランを打った・・・と思ったら、吉村選手だっただろうか?外野手が素晴しい守備をしてフェンスの上にグラブを伸ばし取ってしまった!!

 あれが僕の最初のファインプレーの記憶。プロ野球選手はすごいということを思い知った。守備で感動した(というか僕はタイガースファンなので残念だったのだが)最初の記憶です。

 もう、夏ぐらいからは阪神の優勝はあきらめムードになり、新聞にはバースをはじめ主力打者が絶望的点差のついたスコアボードを見上げる写真が載ったりしました。カッコいい打撃や投球フォームの写真もいいですが、ああいう写真も記憶に残るものなんですね。

 こうして僕が野球を真剣に見始めたシーズンはタイガースの不本意な成績とともに終わったのでした。

 最後に、この年の阪神のドラフト1位は猪俣隆(法政大学)。確か、猪俣選手はタイガースは意中の球団じゃなかったのか、ドラフト後の会見で厳しい表情だったような。巨人に行きたかったのかな。

 そして、満願かなって星野仙一新監督にドラゴンズのユニフォームに袖を通してもらっていたのが・・・近藤真一投手(享栄高校)でした。

 翌1987年のシーズン、近藤投手は空前絶後の偉業を達成することになります・・・。
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