我的愛球史 第4話 運命のドラフト


 僕はその時まで、プロ野球選手という人達がどのようにして誕生するのか知りませんでした。

 よくある笑い話ですが、僕は阪神タイガースの選手は野球がない時は電車を運転していると固く信じていました。

 本当です。

 野球をあまり見ない祖母に「それは違う」と教えてもらうまで、シーズンオフに掛布選手や岡田選手は電車を運転していると思いこんでいたのです。

 そして、ドラフト会議と言うドラマチックな、時に残酷なイベントを経てプロ野球選手が誕生するということを知ったのは1985年11月20日でした。

 その年の目玉はPL学園の清原和博選手と桑田真澄選手。

 清原選手はプロ志望、桑田選手は早稲田大学進学希望。

 清原選手を南海、日本ハム、中日、近鉄、西武、そして阪神の6球団が1位指名。

 抽選の結果、西武ライオンズが交渉権を獲得。

 そして読売ジャイアンツが、進学希望を表明していた桑田選手を単独1位指名。

 というのが、あまりに有名なこのドラフト会議のクライマックスですが、ぼくの記憶が始まるのは、その週末からです。

 今ではそういう場面が本当にあったのかどうか分かりませんが、夜に家族でテレビを見ていると学生服を着た伏目がちの大人しそうな人が、大勢の人に囲まれるようにして飛行機から降りてくる映像が流れ始めました。

 そして、「桑田真澄選手、巨人入り表明」のニュースが始まりました。

 一緒に見ていた母と祖母がその途端に

 「桑田君はずるい!」

 と言い出しました。そして

 「清原君がかわいそう・・・」とも。

 これが、僕が野球に関する報道を熱心に見始めるきっかけになりました。

 その後、僕は阪神タイガースと同じぐらいの関心を持って清原選手、桑田選手の動向を引退されるまで追いかけることになるのでした。

 もちろん今でも大好きな野球人です。

 その年の阪神のドラフト1位入団選手は遠山昭二投手。

 夕方のニュースを見ていると、「阪神タイガースにお世話になります。八代一高の遠山です」と、ジャージを着た遠山選手がピッチングフォームを披露してくれました。

 「優しそうで、かっこいい選手だな」

 と思いました。

 その後、遠山選手は我々阪神ファンにとって忘れがたい名選手のひとりになるのですが、それはまたいつか書くとして・・・。

 僕が本格的に野球を見始める1986年のシーズンが始まろうとしていました。

 
 




















































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