☆ぶらり散策日記~日本野球発祥の地~

 

 


 



この球種は何か?


 


答えを求めて、神田神保町にある三省堂本店へと白いクーペを走らせた。
神保町といえば、やはり古書の街である。


この街が古書の街となったのは、日本学校教育発祥の地である湯島聖堂が近くにあったためらしい。湯島には、東京師範学校(現・筑波大学)や東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の源流となった昌平坂学問所があったほか、文部省、国立博物館などもあったようだ。昌平坂学問所の跡地には、現在も東京医科歯科大学があり、この界隈には他に、日本大学、明治大学、専修大学、法政大学、東京電機大学、順天堂大学、共立女子大学などがあり、さらには、夏の甲子園出場校である正則学園もあり、古書の街は学生の街とも言えよう。



この地で、もう一つ忘れてはならないことがある。それは、日本野球発祥の地ということだ。
神田錦町にある学士会館には、日本野球発祥の地の記念碑がある。


学士会とは、旧帝国大学系大学である北海道・東北・東京・名古屋・京都・大阪・九州の各大学、京城帝国大学及び台北帝国大学の卒業者と、同大学院出身の修士、博士、同大学で教授、准教授、学長の職にあった人たちによる同窓会組織で、文部科学省所管の特例社団法人である。
この地が日本野球発祥の地となったのは、かつて、この場所にあった第一大学区第一番中学(後の開成学校、東京大学)で、アメリカ人牧師ホーレス・ウィルソンが、学課の傍ら学生たちに野球を教えたのが日本で初めて行われた野球だった、と伝えられているためである。2003年にウィルソン氏が野球殿堂入りを果たしたのを記念して、第一大学区第一番中学の跡地である学士会に、学士会と野球体育博物館によって建設されたのである。
また、先ほど述べたように、この地は東京大学の発祥の地でもあるようだ。


 


我々が野球をしたり、観戦したりして楽しめるのも、先人たちのおかげである。
以下、感謝の意を込めて、碑文をご紹介いたします。



日本野球発祥の地


この地には、もと東京大学およびその前身の開成学校があった。
一八七二(明治五)年学制施行当初、第一大学区第一番中学と呼ばれた同校でアメリカ人教師ホーレス・ウィルソン氏(一八四三~一九二七)が学課の傍ら生徒達に野球を教えた。この野球は翌七三年に新校舎とともに立派な運動場が整備されると、本格的な試合ができるまでに成長した。これが 「日本の野球の始まり」といわれている。 七六年初夏に京浜在住のアメリカ人チームと国際試合をした記録も残っている。
ウィルソン氏はアメリカ合衆国メイン州 ゴーラム出身、志願して南北戦争に従軍した後、七一年九月にサンフランシスコで日本政府と契約し、来日。七七年七月東京大学が発足した後に満期解約、帰国した。同氏が教えた野球は、開成学校から同校の予科だった東京英語学校(後に大学予備門、第一高等学校)その他の学校へ伝わり、やがて全国的に広まっていった。二〇〇三年、同氏は野球伝来の功労者として野球殿堂入りした。
まさにこの地は 「日本野球発祥の地」である。


2003年12月
(財)野球体育博物館


 


 


以上です。

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