☆日暮里・舎人ライナーぶらり旅~ふるさと?をめぐるかなり長い旅です(やや嘘)~


むか~しむかし、わたしが常磐線だった頃、父は山手線、母は京浜東北線、弟は京成線だった。この3路線が乗り入れる日暮里駅に、2008年(平成20年)3月30日に日暮里・舎人ライナーが新たに乗り入れる運びとなりました。
日暮里・舎人ライナーとは、東京都荒川区の日暮里駅と足立区の見沼代親水公園駅を結ぶ、東京都交通局が運営する案内軌条式鉄道路線であります。日暮里駅付近を除き、ほとんどの区間が都市計画道路放射11号尾久橋通り(東京都道58号台東鳩ヶ谷線)上にあり、高架で走行します。支柱や桁といったインフラ部は都市計画道路事業として東京都建設局が、軌道や駅舎などの鉄道施設は都市計画都市高速鉄道事業として都営地下鉄大江戸線の環状部分の建設を担当した東京都地下鉄建設が建設する方式を採用しています。開業後の運営主体は東京都地下鉄建設が予定されていましたが、採算上の観点および都営交通ネットワークの充実を図る目的から、東京都交通局が軌道事業の特許を同社から譲り受ける方向で検討され、運営も同局が行うことが決定しました。路線名については、東京都交通局および東京都地下鉄建設が2006年(平成18年)8月15日~31日に一般公募を行い、選考委員会の審議を経て日暮里・舎人ライナーと決定、同年11月13日に駅名とともに報道発表されました。カード乗車券については、開業当初からICカードのPASMOに参加しており、Suicaとの相互利用ができるようになっています。また、パスネットは開業前に「券売機・精算機で使える」というアナウンスがありましたが、2008年1月10日に発売が終了し、2008年3月14日に自動改札機での使用が終了したため、日暮里・舎人ライナーでは日暮里駅の有人改札での処理を除き自動券売機・自動精算機を含めて一切使用できなくなりました。運賃は大人で初乗り160円から最高320円までの4段階です。日暮里・舎人ライナーの車両である300形は、前面デザインが若干異なりますが、ゆりかもめ7000系の6次車にも通じるデザインです。建設の経緯としては、東京23区内の他地域と比べて鉄道系公共交通の便が良くなかった足立区西部の谷在家・舎人地区とJR山手線の駅を結ぶために、1985年(昭和60年)7月の運輸政策審議会答申第7号「東京都における都市高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について」で、建設路線として位置付けられたものである。このため、当初は地下鉄7号線(現在の南北線)の一部として計画されていましたが、財政問題や採算性などから尾久橋通り上の新交通システムに変更されました。通勤時の渋滞により定時運行のできない路線バスに代わる新しい交通機関として期待されていました。新交通システムに変更された後も、財政状況などから軌道事業特許は1995年(平成7年)、工事施行認可は1997年(平成9年)と大幅に遅れました。そのため、事業主体の決定や荒川区側の用地買収に時間がかかったこともあり、開業は当初計画されていた1999年(平成11年)度から2002年(平成14年)度、さらには2008年(平成20年)3月30日と2度にわたって延期されたのです。話が少々それますが、終点の見沼代親水公園といえば、見沼代用水です。その昔、見沼をなくし、そのかわりに用水をひいたので、見沼代用水と言うようですが、見沼に住んでいた龍神が住み処をを失ったため、千葉の印旛沼に移ったと言われています。
ところで、舎人とは、東京都足立区の北西部に位置し、足立区の最北端であり、なおかつ東京23区の最北端でもあります。地区の北と東を毛長川を挟んで埼玉県と、南を古千谷本町と、西を入谷と接しており、その土地は北部を流れる毛長川の土砂堆積によって形成された自然堤防から成り、足立内でも比較的安定した地域であります。また、先述の河川堆積物のために、平均海抜ゼロメートルの足立区内において舎人地域は4~5mの標高があります。なお、舎人一丁目の足立区立舎人小学校敷地の海抜5.5mが足立区最高地点となっています。舎人は、北で埼玉県草加市遊馬町・川口市東本郷、東で川口市本蓮・足立区入谷、南で足立区入谷、西は草加市新里町・足立区古千谷本町と隣接しています。「舎人」とは、もとは皇族や貴人に仕える下級役人や貴族の牛馬などを扱う従者のことを意味しています。その言葉が、どうゆう理由で地名になったのか、たくさんの説があります。①舎人氏由来説、戦国時代に舎人氏が住んでいたからとする説。②舎人親王由来とする説。舎人親王は、天武天皇の第3皇子です。足立区の舎人との結びつきは考えにくいのですが、①の舎人氏は舎人親王を祖先としているので関係があるのかもしれません。③地形由来説、地形を示す語とする説。小石の多い痩せた土地「トネ(石根)」と入り江や谷の奥を表す「イリ」をあわせた「トネイリ」を由来とする。昔、舎人地区は谷の奥で小石が多い土地だった。④アイヌ語説、アイヌ語の湖水を表す「トネ」と高い土地を表す「リ」を由来とする説。⑤平安時代の牧管理者説、平安時代の武蔵国の馬牧が草加市遊馬にあり、その管理者の檜前一族に関係のある舎人が住んでいたことに由来とする説。⑥古代出雲豪族移住説、古代出雲に住んでいた、欽明天皇の大舎人・日置直志毘という人物が関東に移住して故郷の出雲国舎人郷にちなんだという説。⑦聖徳太子命名説、入谷・源証寺所蔵の『太子堂縁起(たいしどうえんぎ)』に記されていたと舎人村の村名由来に基づく説。聖徳太子が身分を隠して関東を巡行していた時、ただ一人その正体を見破った舎人にちなんで命名したという伝承です。皆様はどの説を支持しますか?皆様の住んでいる土地の由来を調べてみると、思いもよらない歴史とつながっているかも知れませんね。
せっかくの機会ですから、足立区の紹介もしておきましょう。足立区はその昔、海辺に接していた低湿地帯の一部でした。この地域は、遠く連なる松戸・国府台の台地と、上野・飛鳥山を結ぶ台地との間に横たわっていた入江や湿原、また入り組んだ荒地であったと推定されています。足立区内は全体的に平らで、人工的に築かれた荒川の堤防や公園内の丘以外に丘らしい高地はほとんどありません。北西部はやや高く、南東部に行くに従って緩やかに傾斜しながら下っていることから、昔から足立区は農耕に適していました。「あだち」という名の由来は、足立区の周辺に葦が多く生えていて、「葦立(あしだち)」と言われたのが「足立」になったという説があります。地勢上のもう一つの特色は、川が多いということです。東京を水害から守るために、明治44年から昭和5年まで長い歳月をかけて開かれた荒川(放水路)が、足立区を北西から南東へと流れ、区を二つに分断しているほか、四方を川で囲まれ、南に隅田川、西に荒川、新芝川、北に毛長川、そして東に中川、綾瀬川、垳(がけ)川が流れています。 足立区は東京23区の最北端に位置しています。東は中川をはさんで葛飾区、西は隅田川をはさんで北区、荒川区、北は埼玉県川口市、草加市、八潮市、南は葛飾区、墨田区、荒川区に接しています。これらのうち、それぞれ最東端は中川二丁目の常磐線中川鉄橋、最西端は新田一丁目隅田川岸、最南端は千住関屋町先常磐線隅田川鉄橋、最北端は舎人四丁目の地点となっています。足立区内の人口は約65万人で、総面積は53.20平方キロメートルで東京23区の約9パーセントにあたり、大田区、世田谷区についで第3位の広さです。この広さは、旧東京市(15区時代)の市域とほぼ同じで、面積は隣接の区、市との境界変更による変動を経て、現在に至っています。現在、足立区には、千住地域を中心に複数の大学が進出(予定も含む)する状況となっています。各大学は地域に開かれた大学を目指し、区や地域との連携を進めています。足立区では、大学連携を積極的に推進し、活力あるまちづくりや区のイメージアップを図っています。放送大学(東京足立学習センター)は平成5年4月開設、大学院(文化科学研究科)、教養学部(教養学科:生活と福祉コース、心理と教育コース、社会と産業コース、人間と文化コース、自然と環境コース)において、現在2,300名の学生が学んでいます。東京藝術大学は平成18年9月開設、大学院(音楽文化学専攻)、音楽学部(音楽環境創造科)において、現在150名の学生が学んでいます。東京未来大学は平成19年4月開設、こども心理学部(こども心理専攻、こども保育専攻、通信教育課程)において1,700名の学生が学んでいます。帝京科学大学は平成22年4月開設、生命環境学部(生命科学科、自然環境学科、アニマルサイエンス学科)、医療科学部(東京理学療法学科、東京柔道整復学科、看護学科)、こども学部(児童教育学科)の3学部で学ぶ500名程の学生も、数年後には2,500名へと増える予定です。東京電機大学は平成24年4月開設予定で、大学院(先端科学技術研究科、工学研究科、未来科学研究科)、工学部(電気電子工学科、環境化学科、機械工学科、情報通信工学科)、工学部第二部(電気電子工学科、機械工学科、情報通信工学科)、未来科学部(建築学科、情報メディア学科、ロボット・メカトロニクス学科)が移転開設され、平成24年からは5,000名程の学生がこのキャンパスで学ぶ予定になっています。
少々前置きが長くなりましたが、足立区といえば、やはり、今年のドラフトでソフトバンクから2位指名を受けた「下町のダルビッシュ」こと、足立学園の吉本祥二投手です。187センチの長身から最速149キロの速球を投げる大型右腕。粗削りながら将来性抜群の投手と言えるでしょう。参考までに、足立学園は1929年(昭和4年)に南足立中学校として創立され、野球部も1929年(昭和4年)に創部され、1932年(昭和7年)の第18回夏の選手権東京大会に初参加し、夏の東京大会の通算成績は105勝75敗、ベスト8に2回進出しています。ちなみに、秋の東京大会は、関東一が帝京を2-0で破って4年ぶり2回目の優勝を飾りました。参考までに、関東一は1925年(大正14年)に関東商業学校として創立され、野球部は1927年(昭和2年)に創部され、夏の東京大会での通算成績は168勝69敗、優勝4回、準優勝3回、ベスト4が5回、ベスト8が9回です。そういえば先程、舎人は足立区のみならず東京の最北端エリアであるとご紹介いたしましたが、秋の東京大会を制した関東一高は東京最東端の甲子園出場校であります。参考までに、東京最北端の甲子園出場校は帝京高校、東京最南端の甲子園出場校は日体荏原高校、東京最西端の甲子園出場校は東海大菅生高校であります。さらに、範囲を関東地区に広げてみると、関東地区最北端の甲子園出場校は栃木県の栃木県立黒磯高校、関東地区最南端の甲子園出場校は千葉県の千葉県立安房高校、関東地区最東端の甲子園出場校は千葉県の千葉県立銚子商業高校、関東地区最西端の甲子園出場校は山梨県の山梨県立巨摩高校であります。さらにさらに、本州に範囲を広げてみると、本州最北端の甲子園出場校は青森県の青森県立青森北高校、本州最南端の甲子園出場校は和歌山県の和歌山県立神島高校、本州最東端の甲子園出場校は岩手県の岩手県立宮古水産高校、本州最西端の甲子園出場校は山口県の山口県立下関工業高校であります。さらにさらにさらに、日本全土に範囲を広げてみると、日本最北端の甲子園出場校は北海道の北海道網走南ヶ丘高校、日本最南端の甲子園出場校は沖縄県の沖縄県立八重山商工高校、日本最東端の甲子園出場校は北海道の北海道中標津高校、日本最西端の甲子園出場校は沖縄県の沖縄県立八重山商工高校であります。




 


甚だ簡単ではございますが、異常です。




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