☆歴史探訪記~川越市営初雁公園球場&川越高校~

645年の大化の改新によって、国や郡をおくという政治の方針が定まり、現在の埼玉県・東京都の全部と神奈川県の一部は「武蔵国(むさしのくに)」と定められた。
アタシは、当時の武蔵国の中心は埼玉であったと考える。

 

埼玉県行田市周辺の埼玉古墳群には大きな古墳が9つもある。これは、5世紀から6世紀頃にかけて大きな権力をもっていた豪族が大勢住んでおり、この辺りが文化の中心であった証といえよう。
埼玉県秩父地方では708年に銅が発見され、それが藤原京の朝廷に献上された。その後、和同開珎が鋳造されたのだ。これは、早くから唐などの外国と交流があり、精錬技術が伝わったとアタシは考える。

 

室町時代になると有力な武将たちは城を築いて敵にそなえた。その頃、武蔵国は扇谷上杉氏と古河公方(足利氏)の係争地であったため、足利氏の勢力(古河城や関宿城や忍城など)に対抗する上杉氏の本拠地として、上杉持朝は家宰の太田道真、太田道灌に川越城(河越城)の築城を命じた。また江戸城も築城させ、古河公方への防衛線を構築した。上杉持朝は初代川越城(河越城)主となった。
川越城の本丸御殿は幕末の嘉永元年に建てられ、修復され現存している。

 

その川越城本丸御殿の直ぐ目の前に、川越市営初雁公園球場がある。この辺りも川越城の敷地の一角だったのだろう。

 

 

 

 

川越初雁球場は、おおきく振りかぶっての「第3話(3回戦)~第5話(野球やりたい)」の中で、西浦高校と対戦をする崎玉高校の試合球場として登場しているようだ。

 

また、川越城三の丸跡地には、埼玉県立川越高校がある。

 

 

 

 

川越高校は1899年(明治32年)に埼玉県第三尋常中学校として創立された、埼玉県内有数の進学校である。
硬式野球部は1900年(明治33年)頃に創部されたといわれており、埼玉県内では県浦和高校に次ぐ歴史を有している。夏の予選には、熊谷中、浦和中に次いで1922年(大正11年)第8回大会予選に初参加した。

 

川越高校といえば、埼玉県勢として春夏通じて初めて甲子園に出場した学校である。
その大会は、1931年(昭和6年)の第8回選抜中等学校野球大会であった。当時の選抜大会の選考は、現在のように秋季大会の成績で選考された訳でなく、詳細は不明である。川越高校野球部史によると、当時の野球部長(川越高校野球部の父と言われている飯田先生)が選抜大会に向けての資料を提出し、成績が評価され選抜大会に推薦されたと記されている。

 

第8回選抜大会といえば、日本の野球で初めて背番号が使用された大会であった。
世界で最初に背番号を採用したのは、1929年のニューヨーク・ヤンキースのようだ。それから2年後、選抜の第8回大会で背番号が試験的に採用された。これが日本で初めての背番号の登場であった。
当時のヤンキースは打順ごとに番号を割り振ったがようだが、選抜大会での割り振り方は不明のようだ。
このときは試みで終わってしまい、翌年から背番号は消えたようだ。
1952年(昭和27年)第34回夏の大会にポジション別の背番号が登場し、翌春の大会でも採用され、現在に至っているようだ。

 

この大会では川越中の野本選手が選手宣誓を行ったようだが、背番号を付け戦国武将のような堂々たる選手宣誓だったのだろう。

 

埼玉といえば、春は大宮工業が天下を取ったが、夏の天下取りはいつになるのだろうか?

 

 

 

 

 

以上です。

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