☆夏は終わらない2020 高校野球独自大会より~日本野球史上初の満塁策・福岡高校~

 

 

1927年(昭和2年)の第13回全国中等学校優勝野球大会に初出場した福岡中(岩手)の捕手・村田栄三が中腰になった時、甲子園全体がどよめいた。


福岡中は、初戦で同じく初出場の桐生中に 4 - 1 で勝利し、準々決勝でこの大会優勝した高松商と対戦。0 - 0 で迎えた9回裏、1死三塁というサヨナラのピンチを迎えると、村田捕手は戸来投手に2者連続敬遠を指示した。村田捕手は臨時コーチとして来ていた明治大学の天知俊一氏(のちの中日監督)から「サヨナラ負けなら2点入っても同じなので、満塁にした方が守りやすい」という秘策を教わっていたのだ。
戸来投手が2人連続して敬遠すると、これまでこのような策を見たことがなかった観客はどよめいた。次の打者に対し、村田捕手は2球目をウエストさせてスクイズを外し、飛び出した三塁ランナー水原茂選手(のちに巨人で活躍)を刺して2死。そのまま打者を三振に打ち取り、ピンチを切り抜けた。三本間での挟殺となったため、封殺もしくは併殺を狙う満塁策の効果は無かったが、これが日本野球史上初の満塁策とされている。
福岡中はこの試合、延長12回の末、0 - 1 で敗れたが、運動記者であった飛田穂州は最大限の賛辞を送り健闘を称えた。

 

 

福岡高校は岩手県二戸市に所在し、1901年(明治34年)に岩手県立福岡中学校として創立された歴史を有し、岩手県北地域を代表する進学校である。
野球部も1901年(明治34年)に創部され、岩手県内では盛岡一に次いで、一関一と並ぶ歴史を有する。
甲子園には、夏のみ10回出場し、甲子園通算成績は4勝10敗である。
夏の全国大会予選には、1924年(大正13年)の第10回大会予選(東北大会)に岩手県勢としては、盛岡中(盛岡一)、一関中(一関一)、盛岡商、遠野中(遠野)に次いで初参加した。結果は、一関中に 3 - 9 で敗退となった。
夏の予選初勝利は、1925年(大正14年)の第11回大会予選(東北大会)で、相馬中(相馬)に 5 - 1 で勝利した。
夏の予選通算成績は213勝85敗である。

 

福岡高校といえば、純白に「H」のマークのユニフォームが特徴的である。
なぜ、福岡なのに「H」のマークなのだろうか?
1926年(大正15年)、夏の予選決勝で盛岡中に再試合で敗れた不運を何とか払拭しようと猛練習を重ね、夏から秋にかけての練習試合では連戦連勝を続け、来年こそは甲子園と地元の期待も高まった。そんな中、誰からともなくユニフォームを変えようと提案された。というのも、盛岡中が早稲田カラーのユニフォームで、福岡中も胸に「FUKUOKA」の早稲田カラーであり、試合中に混乱が生じた。野球部長は当時の強豪であった和歌山中の「W」のユニフォームを意識して、「F」の一文字を採用しようと考えた。しかし、左右対称の文字ではなく、何となくしっくり来ないと感じていた。どうしたものかと思案しているときに、「日本式ローマ字に改める建議」のことを知った。
1926年(大正15年) 12月、「鉄道駅の標記を日本式ローマ字に改める建議」がなされた。地元の福岡駅も「HUKUOKA」と表記されるようになった。「これだ」とひらめいたのが「H」のユニフォームだった。早速、監督に相談し「H」のユニフォームを採用することが決定した。そして、昭和に入り「H」のユニフォームとともに福岡中学野球部の活躍が始まったのだ。

 

 

伝統ある「H」のマークの福岡高校、令和での甲子園復活に期待したい。

 

 

 

 

 

以上です。

chat コメント 

コメントをもっと見る

通報するとLaBOLA事務局に報告されます。
全ての通報に対応できるとは限りませんので、予めご了承ください。

  • 事務局に通報しました。