☆花園への道~大阪第3地区代表・常翔学園~
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鶴丸 深志’
2020年11月04日 22:00 visibility808
「ピッ! ノックオン、スクラム、常翔 ボール」
常翔学園にラグビーが持ち込まれたのは昭和10年頃、当時関西工学校建築科の教諭であった大海卯一先生が体の強そうな連中を集め、ラグビー競技の手ほどきをしたのが始まりで、その後、陸上部、柔道部、剣道部よりこのラグビー競技に興味を持つ者が集り、昭和11年頃に難しいルールもほぼ覚え、チームとしての陣容も整ったので関西工学校ラグビー部として、学校側の許可も受け、西部ラグビー蹴球協会に加入、昭和12年2月24日正式に関西工学校体育会ラグビー部として誕生した。当時、100校近くあった府下中学校でもラグビー部のある学校はまだ少なく、大正14年に創部した天王寺中学校、北野中学校を始め、その後にできた八尾中学校、浪華商業、京阪商業、四條畷中学校、興国商業、浪高尋常科、日本大学附属大阪中学校に続いて、府下10校目のラグビー部誕生であった。しかしながら、昭和10年頃はまだラグビー競技というものが社会的に理解されておらず、ラグビーというものは危険なもの、荒っぽいものと思われ反対する父兄も多かったので、部員はほとんど親に内緒でラグビーをする者が多かった。
現在のジャージは昭和34年度に主将や3年生が色々な人脈を通して他校にないデザインを調査し検討の末に誕生した。ジャージの紺は淀川の水を、胸の赤い2本線は闘魂を表している。当時、無地か段柄がほとんどの中で、斬新なデザイン配色であった。
~常翔学園ラグビー部の歴史より 一部引用~
今年度、第100回を迎える全国高校ラグビーフットボール大会は、例年より12校多い63校が参加する。出場校は、従来の51校に加え、第91回~99回の各予選で参加校数上位3県の愛知、埼玉、福岡に1枠が与えられ、残りは、9ブロック(北海道、東北、関東、北信越、東海、近畿、中国、四国、九州)に1枠ずつ設けられ、各都道府県予選の2位校がブロック代表を決める予選に臨む。(増枠となった3県は参加できない。東京、大阪は1チームを事前に決定しておく)
この大会の始まりは、1918年(大正7年)に行われた「日本フットボール大会」で、サッカーとともに開催された。第3回大会から旧制中学のみの大会となり、第28回大会から高校の大会となった。
会場も当初は豊中運動場、宝塚運動場、甲子園球場、南甲子園運動場、西宮球技場などで行われていたが、第42回大会から現在の花園ラグビー場で実施されるようになった。
大会当初は同志社中が大会を席巻したが、その後は外地の学校が優勝を重ねた。戦後は第28回大会から第48回大会までの21回で、秋田工業が10度も優勝するなど、黄金期を迎えた。また、1950年代後半から60年代前半は保善、その後は天理や目黒(現・目黒学院)が複数回優勝し、覇権を競った。
「スクールウォーズ」のモデルとなった伏見工業(現・京都工学院)が初優勝したのは、1980年度の第60回大会。この時、決勝で戦った大阪工大高(現・常翔学園)は第57回大会で初優勝している。
2000年代に入り、啓光学園(現・常翔啓光学園)が4連覇を達成。近年は、東海大大阪仰星などの大阪勢と東福岡が優勝を分けあっている。
参考までに、優勝2回以上の高校は以下の通りである。
15回:秋田工業
9回:同志社(全同志社含む)
7回:常翔啓光学園
6回:天理、東福岡
5回:常翔学園、目黒学院、国学院久我山、東海大大阪仰星
4回:保善、京都工学院
3回:京城師範、福岡
2回:天王寺、盛岡工業、神奈川総合産業、慶應義塾、桐蔭学園、台北一中、撫順中
個人的には、旧校名の大阪工大高の名称の方が好きだった。常翔学園の花園での活躍を期待したい。
以上です。
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- 事務局に通報しました。
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