☆埼玉県六校応援団連盟の対戦 ~松山高校 VS 不動岡高校~

埼玉県には全国的に見ても珍しい応援団文化が存在している。
それは、埼玉県内の旧制中学である、春日部高校、浦和高校、川越高校、熊谷高校、不動岡高校、松山高校の六校で結成されている埼玉県六校応援団連盟で、夏の全国高校野球選手権大会の埼玉大会開会式での団旗掲揚を始め、インターハイ結団式など、様々な活動をしている。
中でも一番のイベントは、毎年2月、六校が一同に会し、互いの演舞を競い合う「日輪の下に」で、年ごとの主幹校の体育館にて開催される。

 

この埼玉県六校応援団連盟の松山高校と不動岡高校が埼玉大会4回戦で対戦した。試合は、松山が逆転で不動岡に 11 - 8 で勝利した。

 

 

 

 

松山高校は、1922年(大正12年)に埼玉県立松山中学校として埼玉県内で7番目の県立中学校として創立された男子校である。
野球部は1923年(大正13年)に創部され、夏の全国大会予選には熊谷、県浦和、県川越、深谷商、不動岡、埼玉師範、本庄に次いで、市川越、所沢とともに1930年(昭和5年)の第16回大会予選(北関東大会)に初参加した。結果は、県浦和に 8 - 18 で敗退となった。
夏の予選初勝利は、1948年(昭和23年)の第30回大会予選(南関東大会)で、この年予選初参加の川越農(川越総合)に 11 - 0 で勝利した。
松山高校が最も甲子園に近づいたのは1984年(昭和59年)の第66回夏の埼玉大会であった。初の決勝に進出した松山高校を応援しようと集まった人々の数は、生徒、一般人を含め一万人以上となり、熱い応援が展開された。しかし、上尾に 2 - 8 で敗れ悲願達成はならなかった。
甲子園出場経験はなく、夏の予選通算成績は108勝81敗である。

 

 

 

一方の不動岡高校は、1886年(明治19年)に私立埼玉英和學校として創立、1921年(大正10年)に埼玉県に移管され県立学校となった。埼玉県内の高校では最古の歴史を有している。
野球部は1903年(明治36年)に創部され、夏の全国大会予選には熊谷、県浦和、県川越、深谷商に次いで、1927年(昭和2年)の第13回大会予選(北関東大会)に埼玉師範とともに初参加した。結果は、初戦で川越中に 1 - 14 で敗退となった。
夏の予選初勝利は、1932年(昭和7年)の第18回大会予選(北関東大会)で、粕壁中(春日部)に 6 - 2 で勝利し、この年は準決勝まで勝ち進んだ。
1938年(昭和13年)の第24回大会予選(南関東大会)では、二度目となる準決勝に進出した。この時、剛球投手として活躍したのが、上尾や浦和学院で監督を務め、「埼玉県高校野球の父」と称されている野本喜一郎氏であった。準決勝の川越商(市立川越)戦では14奪三振を奪ったが、 1 - 3 で惜しくも敗れた。
甲子園出場経験はなく、夏の予選通算成績は72勝89敗1分である。

 

 

伝統ある両校の活躍に期待したい。

 

 

 

 

以上です。

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