☆センバツへの道 ~21世紀枠東北地区推薦校・只見高校~

慶応4年(1868年)1月、鳥羽伏見の戦いで始まった戊辰戦争は、東北、越後に拡大されていった。

朝敵の汚名をうけた会津藩と幕府勢力である東軍は苦しい戦いを余儀なくされた。
長岡藩軍事総督であった河井継之助は事を平和裏に解決しようと東奔西走し、小千谷に陣をかまえた西軍の軍監岩村精一郎と慈眼寺において談判したが決裂。ここにおいて長岡藩は参戦に踏み切り、更に奥羽越の諸藩同盟を結成、その総督として善戦したが5月長岡城が落ちる。その後7月25日の戦いで、継之助は負傷する。
継之助は、親藩会津に逃れ再起をはかるため、千数百名と共に八十里越を会津に向う。
山越えは難渋を極め、山中に一泊して8月5日只見に着き、傷の手当を受けた。
8月12日幕府医師、松本良順のすすめで会津若松に向けて出発。途中、塩沢村(現在の只見町)の矢沢宗益宅に投宿する。
継之助は、すでに死期を予感し、従者松蔵に死期の準備を命じ、その夜静かな眠りに入った。
時に慶応4年8月16日であった。

 

 

 

福島県南会津郡只見町は福島県の最西端に位置し、新潟県と隣接する日本有数の豪雪地帯である。豊かな自然が残されており、東北で唯一のユネスコパークに認定されている。「自然首都」を掲げ、自然体験などの観光に力を入れる。かつては養蚕や塩の生産で栄え、戦後はダム建設でにぎわった。

この只見町に所在する福島県立只見高校は、1948年(昭和23年)に福島県立南会西部高校伊北分校として創設され、1964年(昭和39年)に只見高校として独立。全校生徒87人のうち、約30人が町外から「山村教育留学制度」で入学。卒業後、そのまま只見で就職する人もいる。

野球部は1976年(昭和51年)創部され、春夏通じて甲子園出場はない。
夏の全国大会予選には、1977年(昭和52年)の第59回大会予選(福島県大会)に初参加し、初戦で原町工(閉校)に 8 - 1 で勝利し予選初勝利を挙げた。
夏の予選通算成績は17勝44敗で、最高成績は16強である。

 

 

只見高校の21世紀枠での甲子園出場に期待したい。

 

 

 

 

 

以上です。

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