☆創部120年を超える高校野球部 秋季県大会観戦記 ~真岡高校~

1968年(昭和43年)産以降、57年連続でいちごの生産量日本一が確実となった「いちご王国」栃木県。栃木県の中でも1番いちごを作っているまちが真岡市である。真岡市の伝統校といえば、勿論、真岡高校である。

真岡高校は栃木県勢として初めて夏の全国大会予選に参加した、言うなれば栃木県高校野球史の扉を開いた高校である。
1918年(大正7年)の8月1日、当時の真岡中が第4回全国中等学校野球大会予選の関東大会に、栃木県から初めて参加した。当時はまだ県大会は行われていなかった。関東大会の場所は、茨城県の水戸商であった。真岡中は下妻中(下妻一)と1回戦を戦い、5対7で惜しくも敗れた。
この大会の優勝は、茨城県の竜ヶ崎中(竜ヶ崎一)だったが、残念なことに全国大会は中止された。原因は、富山県から全国に広まった「米騒動」であった。「米騒動」とは、米屋がシベリア出兵での値上がりをあてこんで米を買い占めたり、売りおしみをしたことで、米の値段が50倍以上にもなり、8月3日に富山県の主婦らが米の安売りなどを求めて、米屋を襲撃した。人々の暮らしは苦しく、これが発端となって全国的な暴動となった。全国大会の主催者朝日新聞社では、8月14日「大会延期」の社告を出し、事実上の中止が決まった。

米騒動といえば、「令和の米騒動」の終結はいつになるのかしら?

 

 

 

野球部創部から120年を超え、栃木県高校野球史の扉を開いた真岡高校の試合が観たくなり、秋季栃木県大会が行われている、とちぎ木の花スタジアム(栃木市総合運動公園球場)に向け、愛車のレクサスLX600 “OFFROAD” を走らせた。真岡高校の観戦は今回が初めてだ。
ユニフォームはアイボリーで、胸には漢字で大きく「真岡」のマーク、右袖にはいちご王国の証である「栃木」のマーク、左袖には「校章」が付いていた。

 

 

 

栃木県立真岡高校は栃木県真岡市に所在し、1900年(明治33年)に栃木縣第三中學校として創立された歴史を有する男子校で、栃木県内有数の進学校である。
野球部は1902年(明治35年)に創部され、栃木県内では宇都宮、足利工に次いで、作新学院と並ぶ歴史を有する。過去に3度、21世紀枠栃木県推薦校に選ばれている。
夏の全国大会予選には、1918年(大正7年)の第4回大会予選(関東大会)に栃木県勢として初めて参加した。結果は、下妻中(下妻一)に 5 - 7 で敗退となった。この試合の審判は「学生野球の父」といわれる飛田穂洲氏が務めた。学校史には「我が軍は初陣でありながら常に窮境にあっても少しもろうばいせず、終始一貫一糸乱れず男らしい態度は深く観衆に感嘆を与えた」と綴られている。
夏の予選初勝利は、1922年(大正11年)の第8回大会予選(関東大会)で、宇都宮農(宇都宮白楊)に 11 - 3 で勝利した。
夏の予選通算成績は99勝99敗1分、甲子園出場は未だない。

 

 

 

試合の方は、元巨人の寺内選手(現栃木ゴールデンブレーブス監督)の出身校で、攻守に鍛え抜かれた栃木工業を相手に、3回終了時点で 0 - 8 と大きくリードを許す展開となった。5回の表に2点を返すも、7回裏に1点を失い残念ながら 2 - 9 のコールド負けとなった。

 

野球部創部122年、伝統ある真岡高校が甲子園の扉を開く日はいつになるのだろうか?

 

 

 

 

以上です。

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