
☆花園への道 〜埼玉第二地区代表・慶應志木高校〜
-
-
鶴丸 深志’
2025年11月16日 10:00 visibility17
ラグビーといえば、やはり、日本屈指の歴史と伝統を誇る早慶戦でしょうか?
ラグビーの早慶戦が行われるようになったのは、1922年(大正11年)のことである。
もともと、日本初のラグビーチームを有していたのは慶應大学であった。英国出身の教授の指導を仰ぎ、1899年(明治32年)にラグビーチームが誕生した。
一方の早稲田大学でラグビー部が創部されたのは、1918年(大正7年)。慶應大学に遅れること19年、京都大学、同志社大学に次いで4番目の大学ラグビー部である。その早稲田大学が日本初のラグビー部である慶應大学へ試合を申し入れ、早慶戦が実現する運びとなった。
ラグビーの早慶戦は、毎年11月23日に行われることになっている。これは、両校の首脳陣が気象庁を訪れ、晴れの特異日を調べた結果である。これが伝統となって、毎年同日にラグビー早慶戦(現在は関東大学対抗戦として)が開催されている。
早慶といえば、第105回全国高校ラグビー大会に東京第二地区代表として早稲田実業が2年ぶり9回目、埼玉第二地区代表として慶應志木が初出場を決めた。
第105回全国高校ラグビー大会は記念大会として例年より5校多い代表56校となり、過去4大会の予選参加チーム数が多かった、埼玉、千葉、神奈川、愛知、福岡の5県が1枠増えて代表2校になる。
(写真は慶應志木のモール攻撃/準々決勝)
悲願の花園初出場を決めた慶應志木の決勝戦は、予想通り手に汗握る好ゲームとなった。
2年ぶりの花園を目指す川越東を相手に、0 - 12 とリードされた前半終了間際と後半開始早々にトライを奪って、14 - 12 と逆転。
後半8分にトライを許して、14 - 19 とされたものの、後半19分に磨いてきたモール攻撃でボールを継続して前進し、左中間へトライを決め 21 - 19 と再び試合をひっくり返した。
試合終了間際には、川越東にラインアウトのモールからゴール前へ攻め込まれたものの、必死のディフェンスで相手の反則を誘発。時間は既に後半30分を過ぎており、ボールをタッチへ蹴り出すと同時にノーサイドの笛が鳴り、慶應志木フィフティーンは喜びを爆発させた。
全国有数のラグビー王国埼玉からは、熊谷工、県浦和、熊谷商、朝霞、行田工(進修館)、埼工大深谷(正智深谷)、深谷、昌平、川越東に次いで10校目となる全国の扉を開いた瞬間だった。
慶應志木ラグビー部を率いて41年の竹井監督(日川高校→筑波大学)。優勝インタビューでは、その歳月の重みが頬を伝った。
ところで、全国高校ラグビー大会に早慶系列校が揃って出場したことはあるのかしら?
過去に遡って調べてみた。
1926年(大正15年)の第9回全国中等學校ラグビーフットボール大会に、東京代表として早稲田実業(初出場)と慶應義塾普通部(5年ぶり2回目)が出場している。他の出場校は、京都市立第一商業、同志社中學、天王寺中學、福岡中學、南満州工業であった。当時は花園ラグビー場は誕生しておらず、甲子園球場で開催されている。
翌年の第10回大会、翌々年の第11回大会にも、早稲田実業と慶應義塾普通部が揃って出場している。ということは、早慶系列校が揃って出場するのは96年ぶりになる。
次に気になるのが、高校ラグビーで早慶対決はあったのかしら?
結論はございません。甲子園での早慶対決もございません。
果たして、秩父宮ラグビー場で大学の早慶戦が行われた後、花園ラグビー場で高校の早慶戦が実現するのかしら?
以上です。
- 事務局に通報しました。

chat コメント 件
コメントをもっと見る