歴史のかなたの名選手〜久慈次郎
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仲本
2011年11月23日 22:01 visibility591
オフシーズンに入ったからか、最近学校探訪ブームがひそかに起こっているのでは(°□°;)。
そろそろどっか行っといたほうがいいかなあと変なプレッシャーがかかっている仲本であります。
が、今日は勤労感謝の日ということで社会人野球ネタを。このヒゲのオッサンは誰やねんという話になります。
先日京セラドームで行われていた都市対抗野球大会では試合と試合との合間に都市対抗の歴史を紹介する映像が流されていました。たまたま映し出されたのが、今なお大会敢闘賞「久慈賞」に名を残す久慈次郎その人でした。
明治31年生まれ。旧制・盛岡中学から早大野球部に進み、捕手として頭角を現しました。卒業後は大学の先輩連の引きもあって函館太洋(オーシャン)倶楽部に所属。身長五尺九寸、今風にいえば約180センチの体格の大型選手で、勝負強い打撃と強肩の持ち主だったとのこと。大食漢としての逸話も残したそうです。昭和6年・昭和9年にアメリカ大リーグ選抜チームが来日した際には全日本選抜の主将としてチームを率いました。
昭和9年の日米野球終了後、プロ球団・大日本東京野球倶楽部が設立される際には破格の条件での入団を要請されます。しかしこの年の春、久慈の生活の本拠・函館は市街地の三分の一を失う大火に見舞われていました。
年齢的に既にベテランの域に達していたこともありましたが「今は何より函館が大事だ」…。かくして函館に残った久慈は函館太洋の選手兼監督として、翌昭和10年の第9回都市対抗には早くも6度目の出場を果たします。
ところがこのチーム、都市対抗の常連で全国的にも「北の雄」として名をはせながらなぜか勝利に縁がなく、初戦敗退が続いていました。早大時代から名選手として鳴らした久慈には「よう御大!また来たな」「若い奴はうまくなったか」とスタンドのファンから激励・冷やかし半々の声がかかったそうです。
悲願の都市対抗初勝利は9度目の出場となった第13回大会(昭和14年)。長野市・長野法規を7−1で破った試合でした。続く準々決勝で3−5で惜敗しましたが、対戦相手の東京市・藤倉電線はその後勝ち上がり優勝するチームでした。「若い奴はうまくなったか」…、来年こそはもっと上へ、と手応えをつかんだ大会だったかもしれません。
しかし、久慈次郎が翌年の都市対抗野球大会に姿を見せることはありませんでした。
都市対抗から戻って間もなく、札幌で行われた全道樺太(!)実業団野球大会に出場した久慈選手。試合終盤、一打同点のチャンスで迎えた打席は敬遠で歩かされます。一塁に向かいかけますが、次の打者にアドバイスを送るため向き直ったところ――。
二塁走者の離塁が大きいのを見た捕手の牽制送球が至近距離の久慈選手の側頭部を直撃。崩れ落ちるように昏倒し、そのまま病院に担ぎ込まれます。頭蓋骨骨折による脳出血により、2日後に還らぬ人となりました。
参考になるかと思って本を一冊見つけてきましたが、これは出版が意外に新しく、当時の関係者がみな亡くなっていること、また選手にとってはあまりに衝撃的な事故だったため、当時の証言はなかなか記録に残っていなかったのでしょう。事故以前の久慈選手の活躍ぶりや、日本最古のクラブチームである函館太洋についても、もうちょっとつっこんだ書きようはなかったんかいな、という気がします。そのへんがやや惜しい本です。
函館太洋倶楽部は日本最古のクラブチームとして現在も活動中。むしろこちらのHPが大変参考になりました。
函館は学生の頃一度訪れましたが当時は当然ノーマーク(函館オーシャンは聞いたことありましたがね)。はあ、また旅先が増えてしまったのかな?(苦笑)。
(参考:『北の球聖 久慈次郎』中里憲保/2006/草思社)
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