第45回「真田の采配、天下を制す」

  • 仲本
    2016年05月29日 20:00 visibility2116

今年に限らず大河ドラマを見る習慣がないが、ゆかりの深い真田父子が主役とあって大阪はなんとなく盛り上がっている模様。


(乗った車両がたまたま「真田丸」ラッピングだったが、ピント合わず…)
というわけで環状線に乗って玉造までやってきた。ここから歩いて数分のところに真田山という地名が残っている。

ドラマ効果で今年の初めに新しい碑が立った。訪れたときも碑の前に足を止める人の姿がちらほら。このあたりが大坂の陣の真田丸の跡地なのだそうだ。せっかくなのでわたしも写真を撮る。


後ろに写っているのは明星中学・高校の校舎。カトリック系の私立校で、明治31年創立、明治36年にこの地に越してきた。野球部の活動開始も明治年間に遡れるらしく…、

野球ネタじゃないか!(しらじらしい)

明星商業時代の大正年間に夏の全国大会に三度出場。市岡中学と覇を競った。しかしその後は浪華商業などの台頭により全国大会の出場を阻まれた。

戦後に入り、昭和30年に選抜出場を果たした後、古豪・明星は元プロ野球のスター選手にチームの復活を託す。高校3年間では基本しか教えられないが、よかろう、面倒みてやるか。

さぞ猛練習に明け暮れたのかと思いきや、練習時間はほかのチームに比べて少なかったそうだ。浪商みたいにやったらもたんような連中が集まった、とOBは述懐する。

指導が実ったのは昭和38年。春の選抜に出場(初戦で敗退)し、夏の大阪大会に臨む。準決勝・浪速戦ではエース堀川がノーヒットノーランの快投を見せた。決勝・PL学園戦では初回1番片山のセーフティーバントがまんまと成功、後にプロ入りした4番和田の長打で2点を先制する。

明星1点リードで迎えた5回、PL一死三塁で明星は投手堀川をレフト、左翼手角田をマウンドへ。スリーバントスクイズを見破って三塁走者を挟殺、ピンチを切り抜けた。

明星は6回から再びマウンドに堀川を戻して得点を許さず。実に40年ぶりに夏の大阪代表を勝ち取った。

甲子園大会でも有力校の一角に挙げられた。強力打線と堀川の3試合完封の好投で評判どおり勝ち上がる。決勝戦は豪腕池永擁する春の優勝校・下関商との対戦となった。

▽第45回・選手権大会決勝
明星 200 000 000/2
下商 000 010 000/1

明星は初回1番片山がバントヒット、これは大阪の決勝と全く同じ。一死二塁から内野ゴロ悪送球でまず1点。ヒットでつないで一、三塁から一走スタート、捕手からの送球がそれる間に三走生還。立ち上がりの揺さぶりに成功する。

実は明星は春の選抜で下関商と対戦し、0ー5で完封されている。「今度は5点とれ」とハッパをかけた監督だったが、明星打線は2回以降ヒット2本に抑えられた。初回以外はほぼノーチャンスだったわけだ。

下関商は5回に反撃。打っても5番の池永が三塁打でチャンスを作ると、綿部が二塁打で続いて1点差。なお一死一、二塁と攻め立てたが、明星はここで堀川から角田に継投。連続三振に切ってとる。

大阪の決勝とは違って角田は続投。左腕からの緩い変化球で打者のタイミングを外し、1点のリードを最後まで守りきった。

朝日新聞の大阪版によれば、優勝を決めた明星スタンドからは五色のテープが舞い、閉会式を終えた選手一同は球場前からオープンカー(おそらく新聞社が手配したのだろう)に乗せられて、たっぷり一時間半かけて学校近くまで到着したという。何事も華美はいかん、というのが高野連だが、当時はまだ鷹揚だった。

明星高校監督の名は真田重蔵。結果的に戦前最後となった昭和15年夏の甲子園で、海草中学の二連覇の立役者となったエース投手だった。甲子園の優勝投手が優勝監督となったのはこのときが初めてだ。

「号外!ごうがーい!明星、真田で天下獲り!」大阪駅頭ではこの口上に号外が飛ぶようになくなったとか(※見てきたような嘘です)。

やるべきことはやった、ということで、真田は翌年からコーチとしてプロ球界にカムバック。3球団を歴任し、野球殿堂にもその名を残している。


(こちらは学校近くの神社にある真田幸村像。今は「幸村」って言わないんですね)















































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