第一回優勝校を逆からたどる放浪記(長いな)〜秋田高校

  • 仲本
    2010年08月03日 23:06 visibility270




さて、第1回優勝校を逆さにたどる旅のうち最も長距離移動となり難関とされた秋田だったわけだが。
まったくいい時代になったもので、家に居ながらにして全国どこでも地図が検索できるようになり、秋田駅からちょっと距離はあるがなんとかなるだろうと見当をつけていた。前日は秋田駅とちょうど千秋公園(久保田城跡)を挟んだ反対側のホテルに泊まっており、チェックアウトして朝から行ってみることにする。とりあえず秋田大学を目指せばよい。秋田高校はその北側にある。城跡の縁を南から東へぐるりと巡り、JRの線路をまたぐ大きな陸橋を越える。案内板にしたがって交差点を左に曲がると秋田大学のキャンパスが見えてくる。ひたすらまっすぐ北上。秋田大学のグラウンドをやり過ごしてさらに進むと、秋田高校のグラウンドが見えてきた。…、と、簡単に書いているように見せてここまで3km近く歩いた計算になる。

1873(明治6)年、洋学校という名で創立。その後いろいろ校名の変遷を経て1901(明治34)年には秋田県立秋田中学校となる。このころすでに秋田にはベースボールが伝わっており、「挑戦杯」と銘打った県内チームの対抗戦も行われていた。野球部創部が1894(明治27年)の秋田中学も、もちろん参加している。野球部は1914(大正3年)の夏、南東北・関東地方に遠征。通算で6勝1敗1分けだった。関東勢では日本中学、荏原中学、早稲田実に勝っている。第1回夏の選手権の開催が新聞告知されると、前年の好成績の自負もあったのだろうか、東北代表として参加を表明。しかし地区で予選を行うよう要請され、急きょ県内の2校と「東北予選」を実施したという。
本大会では三重四中を9−1、優勝候補の一角とされた早稲田実を3−1と接戦で降して決勝へ。京都二中との決勝戦は1−1の同点のまま延長に入り、13回までもつれ込んだが2x−1とサヨナラで敗れ、優勝を逃している。その後の記録を見ると東北大会への参加は不思議なことに第3回、第5回、第7回と一年おきになっていて、予選皆勤とはいかなかった。
(※ このあたりの記述は秋田高校HP、秋田県高野連HPを参考にしています。)







古い話はこれくらいにして、放浪の続き。日曜日の朝9時過ぎだが、もう部員たちが集合している。もっといえば、その前日、秋田大会の決勝が終わったばかりだった。敗れたチームにとってはすでに来春に向けての戦いが始まっているのだ。グラウンドの傍らには旗竿が一本立っている。校章を染め抜いた旗が風に吹かれて揺れている。どれくらいここに掲げられていたのだろう、端のほうはほつれてきている。
グラウンドは公道に面した学校入口側に位置しており、その脇から校内に向かう道が伸びている。「秋田県立秋田高等学校」の門柱も立っていたが、そのすぐ後ろに腕組みをして野球部の練習をじーっと見つめる屈強の男が…、恐れをなして撮影できず。クラブ活動もいろいろ盛んのようで、東北・全国大会に出場する生徒の名前を書いた応援看板がグラウンド脇にどーんと立っていた(個人名もたくさん書いてあるので、この写真は撮っていません。見たい人は現地に行ってね)。
というわけで、秋田高校にいったらしい写真はこんなものしかありません。最後まで逃げ腰か。




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