我的愛球史 第50話 「丹後の星」


 (写真と記事は関係ありません)

 野村克也監督フィーバーで阪神が沸いた1999年の春。

 甲子園でのセンバツ大会に野村監督の母校、京都府立峰山高校が初出場しました。

 丹後地域から初の甲子園出場です。

 丹後地域からの甲子園出場は、地域の悲願でした。

 平安高校や京都商業が強かった時代、同じ丹後の宮津高校が夏の京都府大会を制しながら京滋大会に敗れ甲子園に出られなかったという悲劇がありました。

 ついに峰山高校がその扉を開いたのです。

 その年の峰山高校には川原寛樹投手という絶対的なエースがいました。

 川原投手の活躍で秋の京都府大会を制し、近畿大会での戦いも評価されてのセンバツ出場。

 川原投手は出場32校の中で最も優秀な防御率を誇り、大いに注目を集めました。

 3月29日の甲子園での日南学園との試合、僕はテレビに釘付けになってみました。

 早々と1点を先制した峰山が追いつかれ、そのまま両者譲らず、投手戦になりました。

 度重なるピンチにも峰山ナインは動じず守り切ります。

 特に延長10回には川原投手が絶妙のグラブトスを見せ、スクイズでホームに突入するランナーをアウトにしたプレーは大会屈指の好プレーとして讃えられました。

 最後、力尽き3-1で峰山は敗れますが、甲子園の観客は熱戦を繰り広げた峰山、日南学園の両校に万雷の拍手を贈りました。

 日南学園の春永利治投手もよく投げました。

 試合後、日南学園の監督さんが

「もうこの大会でこんないい投手と当ることはないだろう・・・」

 と言われていたことが、試合の充実、白熱を物語っていました。

 峰山高校を応援する地域や学校の盛り上がりは素晴しく、「M」の人文字をアルプスに描いた応援団は最優秀賞を獲得します。

 夏の大会に峰山高校が戻ってくることを誰もが期待していました。

 しかし、夏は府のベスト4で敗退。

 それ以降、峰山高校が甲子園に出場することは、いまだかなっていません。

 あれから福知山成美が強豪になりました。

 福知山は丹後地域ではありませんが、京都市域や南部の学校以外にも甲子園に出場し、上位に進出することが可能だという意識が京都の高校野球界に根付いたと思います。

 その魁となった峰山高校の功績は大きいと思うのです。

 まったく蛇足になってしまいますが、野村監督の薫陶を受けた古田敦也さんが首位打者を獲って(1991年)脚光を浴びていた1992年のセンバツには、古田さんの母校川西明峰高校が出場しています。

 輝く先輩に後輩が奮起したことは間違いありませんが、何だかここまで物語が美しいと野球の神様の後押しを感じてしまいます・・・。

 

 

























































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