我的愛球史 第38話 「同学年の甲子園ヒーロー」
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こじっく
2010年10月30日 16:25 visibility3137
(写真と記事は関係ありません)
1994年のタイガースを回顧する前に、どうしても書きたかったことがあります。
僕が高校に在籍していた1991年(平成3年)から1993年(平成5年)までの甲子園についてです。
この3年間、自分と同じ学年の高校球児が甲子園で活躍していたのです。
ですから、思いいれはすごくあるのですが、僕も部活をしていたので(野球じゃないんだよな・・・)中学時代のように家でテレビ観戦しているわけにはいきませんでした。
と、言うことであまり試合を見ていないんです・・・。
でも、僕が高校で運動部に入ろうと決めた大きなきっかけの1つは高校に入る直前の春休みに市川高校の樋渡卓哉投手の活躍をテレビで見たからです。
やはり僕は人生の要所、要所で野球に影響を受けています。
さて、松商学園の決勝進出で長野県が燃えた1991年の春のセンバツ(優勝は広陵)の直後に高校に入学した僕。
その時、自分の高校の3年生に素晴しい左腕投手がおられました。
また名手が守る二遊間中心に守備がとても鍛えられており、主将も務める四番打者もスラッガー(この方と僕は名前が同じだったので誇らしかった)。
練習試合も県岐阜商に勝つという具合で、夏の甲子園出場校の候補に挙げられていました。
僕は自分が部活をしていなかったらかなりの試合を見に行っていたと思うのですが、自分の部活があるので1試合も行けなかった。
春の府大会3位。
夏に向けて期待が広がります。
そして、迎えた夏。
初戦を1−0で制します。相手は7年後に夏の選手権で全国準優勝する強豪でした。
次の相手も好投手を擁しています。しかも、今考えたら後にプロ入りする投手が確かこの時2人在籍していたんじゃないかな・・・。高校野球ファンなら必ずご存知の高校です(春1回出場)。
0−2で敗戦。
しかも最後は3塁走者がホームで憤死ゲームセットという結末(だったと思います、何分実際に見てないので・・・)。
こうして母校の甲子園出場の夢は潰えるのです。
母校の野球部については、またそのうち触れたいと思います。
1991年の夏。
大阪桐蔭と沖縄水産の決勝戦。
沖水が一度は6−2とリードしながら、萩原誠選手(阪神ドラフト1位)を中心とする猛打線の反撃を受け11−8で大阪桐蔭が優勝。
大阪桐蔭は初出場でした。
この試合は8月19日だったんじゃないかな・・・クラス合宿から帰った日だったので部活を休むことができてテレビ観戦できました。
沖水の大野倫投手(後に巨人、ダイエー在籍)の必死の投球が目に焼きついています。
翌日の新聞記事に「大野にはしばらくボールを握らないで欲しい。ゆっくりと休んで欲しい」という異例の文章が載りました。
それを読んで、「ああ、僕もこれぐらい部活で燃え尽きたい・・・」と思ったのでした。
92年のセンバツは三沢興一投手を擁する帝京が優勝。この大会は僕は部活で忙しくて全然見た記憶がありません。
92年の夏は森尾和貴投手がエースの西日本短大付属高校が優勝。この年プロでブレークした新庄剛志選手の母校ですね。
森尾投手は地方大会から甲子園決勝までを一人で投げきり、甲子園では4完封。
拓大紅陵との決勝戦も1−0の完封という離れ業!
その後、この夏の影響が身体に出てしまって、社会人野球で大きな活躍が見られなかったのは残念です。
そして、1993年の春のセンバツ。
僕は自分が高校時代を過ごした3年間の中では、この大会が一番印象に残っています。
上宮高校が優勝。
上宮高校は前年の秋の大会では大阪を制したものの、近畿大会では岡島秀樹投手を擁する東山高校に2回戦でコールド負け。
センバツ出場は微妙な立場でした。
結果的にセンバツに選ばれても前評判は高いものではなかったと記憶しています。
それが大会が始まると、初戦の横浜高校戦に背番号9牧野光将投手が先発。
横浜高校を延長10回4−3で下すと波に乗ります。
2回戦鹿児島実業には11−1で大勝。
準々決勝の新鋭東筑紫学園には3−0。
準決勝は駒大岩見沢を4−1と次々に好内容のゲームで勝ちあがっていきます。
迎えた決勝は大宮東高校。
牧野投手の頭の真上から投げ下ろす迫力ある投球が冴え渡り、3−0の堂々の完封勝利。
僕は一気に牧野ファンになりました。
事実、ご両親ともに全盲という牧野選手のご家庭のことが報道されたことあって、牧野選手は注目を集めました。
背番号9のエースということも珍しかった。
しかし、夏は上宮高校は甲子園に戻ってくることができなかった・・・。
僕が高校3年だった1993年の夏。
冷夏で雨が続き、大会日程も変更が続きました。
僕は部活を引退し、目的意識を失ってダラダラした夏休みを過ごしていました。
育英と春日部共栄の決勝戦だけ、テレビで見ました。
でも決勝のマウンドに上ったのは両校とも背番号10の2年生投手じゃなかったかな・・・。
試合は3投手による継投策をとった育英が3−2で優勝。
しかし、春のセンバツで味わったような感動は無かった・・・とかいう書き方をすると、僕が甲子園に出て春夏連覇したような言いっぷりですが、そんなことはありません。
あの冷夏の空、インターハイ出場も逃し部活を引退して引きこもっていた自分の姿と相俟って、同学年が甲子園で勇躍したはずのあの夏の記憶はどこかクール、そしてドライです。
しかし、牧野光将選手の印象は長く残りました。
後年、長嶋一茂さんが阪神の覆面選手になって活躍するという変てこな映画「ミスタールーキー」を観に行った時、阪神選手の中に牧野光将選手が!!
甲子園のスコアボードに「牧野」って出た時は嬉しかった!
牧野選手は大阪ガスの選手として、映画撮影に協力されたのでした。
と言うわけで、僕の同学年の最大のヒーローは、高橋由伸選手でも川上憲伸選手でも岡島秀樹選手でもなく、牧野光将選手!!・・・なのです、僕にとっては。
牧野選手、まだ現役続けておられるのだろうか?
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- 事務局に通報しました。
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