我的愛球史 第49話 「知将、躓く」
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こじっく
2010年11月12日 01:04 visibility188
(写真と記事は関係ありません)
1999年、野村克也阪神新監督の一挙手一投足に我々阪神ファンは注目しました。
特別に注目しようと思わなくてもマスコミが連日報道してくれたのです。
パンツの色から選手指導の時に座ったゴルフ様の椅子から何から何まで話題になりました。
野村監督の阪神での野球のキャッチフレーズは「ID野球」ならぬ「TOP野球」!
それが何の略かと言いますと・・・忘れてしまいました。・・・優勝していればこの言葉は大流行したことでしょう。
僕もあの頃は野村監督の著書を読んで監督に心酔していました。
野村監督の書かれた言葉の中で最も心に残っているのは「才能の大きさとは結局は家族への愛の大きさ」という内容の言葉でした。
それが真実かどうかは別として、野村監督の優しさや人への思いの深さが表れている気がしました。
「メモを取ろう」とか「データを重視する」とか「観察する習慣をつける」などという方法論よりも、野村監督の「才能」についての考え方の方が僕の心をとらえました。
野村監督への期待は膨らむばかりでした。
迎えた開幕戦。
今岡誠選手が顔面ギリギリに来たボールをバットで防ぐようにして打ったホームラン。
解説の落合博満さんも「この一本を見ただけで開幕戦を見に来た価値がある」と言ったほどの奇跡の一打が飛び出したものの1−8で巨人に大敗。
「第一声、アカン」
新聞になんとも拍子抜けのした見出しが躍りました。
しかし、2戦目9−4で巨人に打ち勝つと、3戦目はプロ初登板の上原浩治投手を打ち崩して連勝。
終わってみれば開幕カードを勝ち越しという上々の船出。
さすが野村監督・・・誰もがそう思ったに違いありません。
しかし、その後メッキが剥れたように負け星がついて4月17日まで3勝9敗。
例年ならここから「定位置」独走ですが、99年の阪神はそこからが真骨頂。
4月18日から一気に6連勝で五分の星に戻します。
4月終わって11勝11敗。
5月に入るとさらに野村阪神は加速しこの月を13勝9敗と勝ち越します。
そして6月9日、28勝25敗の貯金3ながら混戦のセリーグで単独首位に立ちます。
しかし、何と言っても99年のハイライトは6月12日の甲子園での巨人戦でしょう。
槙原寛巳投手から新庄剛志選手がサヨナラの敬遠球打ち!
「伝説の試合が生まれた・・・これで今年は優勝だ。」
そう思いました。
しかし、この試合で精魂を使い果たしたわけではないでしょうが、そこから阪神は負けが込み始め、じりじりと順位を下げていきます。
その後、阪神は二つの崩落に見舞われます。
まずは7月21日から8月6日までの9連敗。
そして9月11日から28日の12連敗。
しかもシーズンのラスト20試合は4勝16敗。
2年連続の最下位に終わりました。
エース藪恵市投手の6勝16敗が象徴しているように先発陣が振るわず、打撃もジョンソン選手の20本塁打が最高。
チームに力がまだまだ力が無く他の5球団の圧力に押し潰されたような1年でした。
特に守護神リベラ投手の故障離脱は大きな痛手でした。
そんな中での希望は、ルーキーながら10勝(7敗9セーブ)を挙げて勝ち頭になった福原忍投手。
ロッテから阪神に復帰した遠山奨志投手は63試合に登板しカムバック賞を受賞しました。
また坪井智哉、和田豊両選手が.304、.302と責任を果たし、新庄選手も14本塁打と復調。
大豊泰昭選手は代打起用も増えながら18本塁打、39打点、打率は何と.341と気を吐きます。
後の阪神の歴史を考えると、矢野輝弘捕手が.304とバッテイングでも自信をつけ、正捕手として存在感を増したことがこの1年の最大の収穫だったようにも思います。
矢野捕手は野村監督の薫陶を受け、攻守ともに阪神を支える大黒柱と成って行くのでした・・・。
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