我的愛球史 第40話 「傷ついた神戸を勇気づけたのは・・・」
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こじっく
2010年11月01日 10:35 visibility153
1995年1月17日未明。
当時僕は京都の私立大学に通う大学生でした。
後期試験の真っ最中で、僕は夜中過ぎまで勉強してから、試験のことを心配しつつ布団に入っていました。
5時47分・・・突然、大きな揺れを感じました。
自分の布団の上に文庫本やら筆記用具やらが雨のように降ってきました。
「地震だ!」
僕は布団の中に頭を隠しました。
「揺れが止まらん、長いぞ・・・こんなの初めて・・・」
1分弱で揺れは止まりました。
「震源地は近いぞ、静岡か?それとももっと近い?」
その後、テレビをつけると信じられない光景が・・・。
阪急伊丹駅が崩れていました。
1ヶ月前に自分も降り立った三宮駅も。
神戸の町が燃えていました。
阪神大震災です。
死者6434名、被害総額10兆円ともいわれる大惨事。
甲子園球場もスタンドに被害が出て、センバツ大会の開催が危ぶまれました。
しかし、震災にあった阪神地域を勇気付けるためにも・・・との判断で大会は開催。
鳴り物なしの応援の素朴な雰囲気でしたが、観音寺中央高校が初出場で優勝を飾りました。
長くファンの記憶に残る大会でしょう。
そしてプロ野球。
阪神タイガース、そして神戸を本拠地とするオリックスブルーウェーブに期待がかかりました。
「いつもは家族や恋人のためにプレーしているかも知れない。でも、今年は震災にあった人たちを勇気づけるためにがんばろうや・・・」
仰木監督の言葉にオリックスの選手は一致団結。
イチロー選手はこの年もうすこしで3冠王達成の首位打者と打点王に輝きます。
震災直後、愛知県の実家に身を寄せたことがスポーツ新聞に「イチロー神戸を脱出」と書かれてしまい「僕はキャンプ地に行かず神戸で練習する!」と発言するぐらい心を痛めたイチロー選手。
見事に神戸の、いや、日本中の期待に応える活躍でした。
そして、阪神タイガース。
この年は、最悪の成績に終わります。
46勝84敗、勝率.384で4割に届きません。
開幕から5連敗。
おまけに4月16日にチーム随一のファイター亀山努選手が味方選手と交錯して骨折。戦列から離脱するとチームは坂道を転がるように負け続けていきます。
グレン、クールボーの両外国人選手に助けられ、何とか戦うタイガースですが、僕はこの年が一番弱かった印象があります。
良かったな・・・と思うのは僕個人の感想としては萩原誠選手が掛布雅之さん以来の阪神の左打者として2打席連続ホームランを打ったことぐらい。
それも今調べてみたら7月13日の広島戦だったか8月5日の中日戦だったか分からなくなっています。
当時はあれだけ喜んだのに・・・やはりチームが弱くて印象が薄い。
そんな中、この年は僕はタイガースの公式戦を甲子園球場で初めて観戦しました。
8月3日のヤクルト戦。
先発の藪投手が早々と打たれて・・・しかも快打をかっ飛ばしていたのは去年まで味方のオマリー選手。
石井一久投手にいいようにやられていました。
僕と同じ年の平尾博司選手のプロ初ホームランが見られたのと、同じく同じ年の井上貴朗投手が敗戦処理で登板してなんとか試合を締めるピッチングを見られたのが嬉しかったぐらい。
ああ、いよいよ自分の世代の選手がプロ野球を背負っていく時が来たな・・・と。
この時も、惨敗に怒ったお客さんがグランドに色々と物を投げ入れて・・・これは良くないな、と思っていました。
すると、球場の係員の方と一緒にグランドに投げ入れられたメガホンなどを拾うヤクルトの選手がいました。
稲葉篤紀選手でした。当時から人格者。これで稲葉選手が好きになりました。
散々な試合を見た後、JR甲子園口まで寂しく歩いて帰ったことが印象に残っています。
これが僕の甲子園でのタイガース初観戦の思い出です。
しかし、オリックスがリーグ優勝して、この年は本当に良かった。
「がんばろう神戸」
このスローガンとともに戦ったオリックスナインの姿は永遠に忘れられることはないでしょう。
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