我的愛球史 第34話 「泣かないで、イノマティー」
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こじっく
2010年10月22日 11:58 visibility1790
高校1年の夏休みにクラス合宿がありました。
現地集合だったので、僕はバスに揺られてバンガローのある山奥まで行きましたが、そのバスの中で読んでいた雑誌に面白い漫画が載っていました。
「泣くなイノマティー」(中山ラマダ先生・作)
当時どん底だった阪神というチームに在籍する選手を主人公にした漫画というだけでも珍しく、阪神ファンの僕には嬉しいものでした。
しかし、なぜに猪俣隆選手が主人公?
阪神を象徴する選手なら岡田選手や真弓選手、和田選手ではないのか?
読み進めていくうちに、その理由は、漫画の中に描いてある・・・と僕は思いました。
漫画の中に、「日本で一番ヒットを打たれる姿が美しいピッチャーは猪俣」
という描写があったのです。
僕は「あ!」と思い、納得しました。
当時の猪俣選手は、好投しながらも打線の援護がなく、そのうちランナーを置いてセンター前にヒットを打たれ、失点する・・・という場面が多かったのです。
そして、その時、猪俣選手は長身を更に伸ばすようにしてマウンド上で飛び上り、グラブをした右手でボールを獲ろうとする姿!
その姿を僕らファンは何度も見ていました。
確かに、美しいと言えば、美しい場面でした。
そして、当時の阪神を象徴していました。本当にピッチャーが好投しても味方が打てなかった。
猪俣隆選手。
ドラフト1位で法政大学から入団。
入団時、阪神は意中の球団でなかったようで会見で憮然として「でも阪神は人気のある球団だから・・・」と、自分に言い聞かせるようにしていた姿が印象的。
背番号は17番。
1年目の87年に早くも5勝をいあげるが翌88年は故障で未勝利。
すると89年からは背番号を25に変更。どうも虎の投手17番は大成しないようです(一時期野手の吉田剛選手がつけていたこともありました)
故障を抱えているからか、中継ぎ、抑えでの起用もありましたが、何と言っても先発でこそ持ち味の発揮できる投手だった。
どん底の90年には4月18日に神宮でヤクルト西村、8月31日に甲子園で広島金石、9月5日に甲子園で大洋斎藤と投げ合って3完封。
しかも8月31日は延長10回を投げきって一人で抑え、最後八木選手のサヨナラホームランで勝つという最高の幕切れ。
どん底時代に差し込んだ一条の光でした。
しかもプロ入り以来なかなかヒットが出ずデビューから79打席連続ヒットなしという当時のセリーグ記録も打ち立ててしまいました。コントロールが悪かったことも含めて、器用な人じゃないんでしょうね、きっと。
優勝を争った92年も5勝をあげ、4月11日には甲子園で中日を完封。
しかし、その92年は離脱していた期間も長く、だからこそ翌93年にかける思いは強かったのでしょう。
93年には11勝と自身のキャリアで唯一となる2桁勝利。
その後は故障の影響もあり徐々に1軍での登板が減って行き、最後は中日で現役生活を終えられました。
通算191試合 43勝63敗3セーブ 完封7が光ります。623奪三振 防御率3.68
弱かった時代の阪神を精一杯支えていただけに、阪神がもっと強い時代に投げていたら・・・と思わせる投手でした。
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