我的愛球史 第33話 「大きな背中」


 (写真と記事は関係ありません)

 阪神の昭和最後のドラフト1位指名は、一風変った選手になりました。

 まず「神埼工定時制」という、失礼ながら高校野球では聞いたことのない高校からの指名選手。

 「定時制?へぇ、じゃあ、昼間は働きながら野球を続けてた人なのか?」

 「仕事は阪神球団職員??じゃあ、甲子園の芝生を刈ったり、ボールを磨いたりしてる人なのか・・・?」

 と言うことを、中学1年生だった僕は真面目に考えていました。

 実際はいわゆる有望選手の「囲い込み」を球団がしていたのですね。

 同じケースでの入団には西武ライオンズの伊東勤選手(言わずと知れた後の監督さんです)や中日ドラゴンズの大豊泰昭選手の例があるそうです(後に阪神に移籍)。

 そして、入団会見を見て

 「この人、ピッチャー?キャッチャーみたい・・・」

 太っていたのです。イメージ的にはドカベンかベーブ・ルース。

 こうして背番号99番のドラフト1位ルーキー中込伸投手の波乱のプロ生活がスタートしました。

 1年目、ほとんど芽が出ず・・・・。

 2年目、5月13日に長崎でプロ初先発。

 狭い球場という事情も手伝って、味方はパリッシュ選手の1試合2発を含む5本塁打を放ち中込選手を援護します!でも、全部ソロアーチで5点止まり・・・この辺が当時の虎らしいというか何と言うか・・・ヤクルトは12点を取って阪神の負け。

 後に「好投しても打線の援護に恵まれない」という印象がついてしまう中込選手ですが、プロ初先発ではこんなに手厚く(?)援護されても、それ以上に派手に打たれていたのです。

 それでもその年は以後も何試合かチャンスを与えられますが生かすことができず未勝利。

 プロ1軍ではまだ通用しないのか・・・嫌な予感が漂います。

 しかし、翌91年9月22日に大洋戦で初勝利。

 中込選手もファンも安堵したことでしょう。

 ある程度完成された社会人や大学生のドラフト指名選手と違い、いくら1位指名といえど、高校卒業での入団選手はきちんと球団が育成できるのか不安があるものです。

 こうして3年目で目が出た中込選手は、4年目の92年は開幕から先発の柱としてマウンドに立ちます。

 しかし、この年は好投してもなかなか打線に火が付かなかった。

 重い速球を低めに集め、防御率は2.42と優秀な虎の投手陣の中でも出色の数字だったにも関わらず9勝止まり。

 あの安定感で8敗も数えているということは、それだけ長いイニングを投げて試合を背負ったということ。

 試合を背負う。

 この表現があの年の中込投手にはピッタリでした。

 大きな背中がたくましく見えました。

 大きな背中に大きな背番号99。

 とても似合っていました。

 そして、頭の襟足には一時期「M」の文字の剃り込みが。

 これは奥さんのイニシャルだったのです。

 剃り込みはいかついですが、それでも関西では背番号99番にかけて「救急」のポスターに起用されるなど、親しみの持てるキャラクターもあって人気者でした。

 その後93年も8勝を挙げますが、以降は故障で投げられない年もあり、投げても負け星の方が多くついてしまうピッチャーになってしまいました。

 大きな背番号は、95年から高校野球ではエースナンバーの「1」になりましたが、期待に反しチームのエースとしての活躍は見られることが無かった。

 そして、2001年に退団、他球団のテストを受けるなど再起を模索しますが果たせず。

 その後、台湾プロ野球で指導者として活躍されますが、野球賭博に関与したという信じられない報道を我々は耳にすることになりました。

 現在も裁判が続いているようですが、中込氏は罪状を認める証言をしていると聴きます。

 今後、厳しい人生が待っているかもしれませんが、我々は再び中込氏の笑顔が見られることを待っています。











































































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