我的愛球史 第20話 「東北のバンビ」

 1989年の夏の甲子園といえば、上宮高校の元木大介選手、仙台育英の大越基選手、そして優勝した帝京の吉岡雄二選手らがスターとして挙げられると思います。
 
 しかし、僕にとってこの年最高の甲子園ヒーローは秋田経法大付属の1年生背番号10中川申也選手でした。

 1年生(5ヶ月前まで僕と同じ中学生じゃないか!)で2完封含む甲子園3勝!

 もう、これだけで尊敬の眼差し。

 しかも、この夏のフォームは足が高く上っていてカッコよかった。

 準決勝で、惜しくも帝京に敗れ決勝進出はならなかったのですが鮮烈な印象を残しました。

 帝京打線に打たれ、中川選手が3年生のエースナンバーの選手交代する代わり際に

 「ありがとう。カッコよかったよ」

 と声をかけられてボールを渡した・・・。

 そういう報道を見て、僕はじ〜んときました。

 上下関係が厳しいというイメージの高校野球だけど、2つ上の先輩にそんな風に声をかけてもらえるなんて・・・。

 これは、1年生として最高の喜びではないだろうか?!

 そう思いました。

 この先の中川選手の輝かしい未来が見えている気がしました。

 その後、翌年春はスラッガー内之倉隆志選手擁する鹿児島実業に1回戦敗退。

 2年連続出場となった90年夏は緒戦の育英戦で後にオリックス入りする戎信行投手と延長まで縺れる投手戦を演じて勝つものの、次の試合は横浜商業に敗戦。

 中川選手としても不完全燃焼だったのではないでしょうか。

 それでも中川選手は大会の度に注目選手として挙げられ、NHKのスポーツニュースで中学時代の63イニング無失点記録が秘蔵映像とともに取り上げられたり・・・・とファンの期待を集める存在ではありました。

 しかし最終学年となった91年は春も夏も出場を逃してしまい、僕らファンは改めて高校野球の厳しさを知ることになったのでした。


 その年の秋のドラフト。

 中川選手は・・・なんと我が阪神に5位指名されて入団!

 あの時は驚くとともに、嬉しかったなあ・・・。

 結局、高校時代はあれだけ甲子園で躍動した中川選手も、プロでは公式戦に一度も登板できず引退されてしまいました。

 しかし中川選手がプロでつけた背番号53は後に赤星憲広さんが甲子園のフィールドで存分に輝かせてくれました。

 虎の53番は多くのファンに赤星さんの背番号として記憶に残り続けるでしょう。

 でも、僕は赤星さんより前に53をつけた甲子園の希望の星がおられたことを忘れません。

 

 
 

 

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