☆敗者復活からの優勝~旭丘高校~
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鶴丸 深志’
2018年02月11日 07:45 visibility3278
高校野球は「負ければ終わり」の一発勝負の戦いである。だからどんなにリードされていても、最後まで諦めないで必死に戦う姿が胸を打ち、感動を呼ぶのである。
しかし、過去に敗者復活戦が取り入れられ、そこから勝ち上がって優勝した学校がある。
1916年(大正5年)の第2回夏の全国大会で敗者復活戦が1試合取り入れられた。1917年(大正6年)の第3回大会では2試合が行われ、その中から勝ち上がった愛知一中(現・旭丘)が優勝するという珍事が起きた。
まず、1回戦の長野師範(現・信州大学教育学部)戦で、5回に内野の不手際から3点、6回にも1点を追加され、7回から1点ずつを返したが、1点及ばず 3 - 4 で敗れた。
しかし、1回戦で敗れた6チームの中から抽選で4チームが選ばれ、勝ち残った2チームが準々決勝に出場できる事となっていた。愛知一中はその抽選に当選した。
敗者復活戦に出場するチームは翌日2試合を戦わなければならなかった。愛知一中は午前中の敗者復活戦で、和歌山中(現・桐蔭)と対戦。長谷川投手が相手を2安打、10奪三振で完封、初回の1点を守りきり 1 - 0 で勝った。午後の準々決勝は、同じ復活組の明星商(現・明星)と対戦。1 - 1 の8回表2死で、三ゴロを一塁手が失策、二進していた四球の走者が生還して 2 - 1 で辛勝した。この試合、長谷川投手は1点を取られたものの、ノーヒットの17奪三振という快投だった。
準決勝に駒を進めた愛知一中は、杵築中(現・大社)と対戦。9回に追い上げられて2点を返されたが、3 - 2 で決勝進出を決めた。
決勝戦は、関西学院中(現・関西学院)と対戦するが、ここでも幸運が訪れた。
試合は関西学院中のエース内海投手と長谷川投手の投げ合いとなった。長谷川投手は、0 - 0 の6回表に、安打と送りバントの後、連続四球を与え1死満塁のピンチ。内海投手が二ゴロを打つ間に1点を許した。その裏、愛知一中が2死無走者となった所で、猛烈な夕立が来てノーゲームとなり、再試合となった。あと一人アウトになればコールドゲームが成立し、関西学院中の勝利が宣告されるというところを救われたのである。
前日の雨が嘘のように晴れ上がった決勝戦の再試合は、再度両投手がお互いに一歩も譲らぬ投手戦で、0- 0 のまま延長戦に突入した。
延長14回表、愛知一中が遊撃手の一塁悪送球で出塁した走者を三塁に置いて、2死後1番打者の当たりそこねの三ゴロが内野安打となり決勝の1点を挙げ 1 - 0 で優勝を飾った。
この敗者復活戦は、「一度負けた学校が優勝するのはおかしい」と物議をかもし、この大会を最後に廃止された。これにより、愛知一中は「高校野球史上唯一の敗者復活からの優勝校」となり、また、この優勝が愛知県勢初の優勝となった。
旭丘高校は1870年(明治3年)に創立された150年近い歴史を有し、東大、京大、名大などに多くの合格者を輩出する愛知県内屈指の進学校である。
野球部は1893年(明治26年)に創部された県内最古の歴史と伝統を有する。
そんな歴史と伝統を示す象徴的なものが、レトロ感たっぷりの帽子とユニフォームだ。円筒形に2本線が入った白い帽子と胸の真ん中に鯱が一対「旭高」の文字を挟んだ校章だけというスタイルは、明治時代からのものである 。愛知一中時代は、「旭高」の部分が「一中」になっていたという。その雰囲気が現在も変わらず継承されているのだ。また、旭丘は夏の第1回大会から一度も欠かす事なく予選に参加し続けている夏の予選皆勤校でもある。
21世紀枠で甲子園復活して貰いたい學校のひとつである。
以上です。
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