☆野球年報の写真から~太田中學、韮山中學、斐太中學~

 

 

 

東京・本郷にあった運動具店、美満津商店の店主・伊東卓夫氏が明治後期から大正初期かけて発行した、野球年報を見る機会ができた。

そこには、外国人チームとの試合結果や各地方での試合結果、野球規則、選手の写真も掲載されていた。

中等學校の選手の写真を見ていると、二本線の入った帽子が目に入ってきた。(っていうか、それが目的でしたが)

帽子の二本線といえば、旭丘高校(愛知)は現在も創部からの伝統が受け継がれている。

帽子の三本線の市岡高校(大阪)も創部当初は二本線だったようだ。その後、大阪市内で三番目の中等學校ということで三本線に変更され、以降三本線の伝統が受け継がれている。

 

この頃は帽子の二本線を採用していた中等學校が結構ある。過去に記述した立川高校(東京)や嘉穂高校(福岡)をはじめ、これまでに、早稲田高校(東京)、佐倉高校(千葉)、成田高校(千葉)、三国丘高校(大阪)、長崎西高校(長崎)などで二本線の帽子を被った選手の写真を確認した。

 

なぜ、二本線なのか?

これはあくまでアタシの推測です。東大の前身の第一高等学校が丸帽に白の二本線の制帽を採用し、それが全国の旧制高校に広まって行ったようです(一部の旧制高校は三本線を採用)。その影響を受けて中等學校も二本線の制帽を採用、制帽を真似て野球帽も二本線を採用したのではないでしょうか? 

 

野球年報に掲載されていた上の写真3枚は、現在の太田一高(茨城)、韮山高校(静岡)、斐太高校(岐阜)である。この3校も創部当初は帽子の二本線が採用されている。また、各県で三番目(と思われる)に野球部が創部されたという共通点もある。

ユニフォームのマークに関しては、現在、太田一高は漢字で「太田一高」の表記に変わっている。創部当初はおそらく「OTA」、その後「OUTA」→「OHTA」→「TACHU」→「OTAICHI」と目まぐるしく変わっている。どれか選ぶなら、個人的には「OUTA」でしょうか?

韮山高校は「NIRACHU」、「NIRAKO」の時代があり、現在は「NIRAYAMA」。

斐太高校は「HIDA」が継承されていると思われる。また、第1回夏の全国大会予選参加校である。

 

 

最後に、2001年に朝日新聞社が各都道府県高野連を通じて、創部100年以上の歴史を持つ高校を調査している。その結果、全国に149校あるのが分かった。最多は東京の8校、次いで千葉の7校、次いで福島、茨城、新潟、広島、山口、福岡の6校となっている。ただ、資料が残っておらず正確な創部年次が不明な高校もあったようだ。149校のうち、甲子園未出場校が40校余りであった。

一世紀以上にわたって高校野球を支えてきた甲子園未出場校の活躍を期待したい。

 

 

 

 

 

以上です。

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