行って、読んでみた~北の球聖 久慈次郎

  • 仲本
    2017年09月24日 12:15 visibility1688

社会人野球のビッグタイトル・都市対抗野球大会には人名を冠した賞が三つある。橋戸賞・小野賞・久慈賞という。主催の某新聞社はかつて大会前になるとこれらの人物の簡単な経歴を掲載していたので、わたしも子供のころから名前だけは知っていた。いずれも野球殿堂の第1回表彰対象者となっている。

 

殿堂にはそれぞれの肖像と顕彰文を刻んだレリーフが掲げられている。近年になるほど顕彰文が長くなる傾向があるのは、細かく書かないとすごさや違いが伝わらないからかもしれない。それに比べて初期の表彰者のものは実にあっさりとしている。「久慈次郎 早稲田大学在学中より名捕手として知られ、社会人野球の育成に努めた。1939年球禍に会い札幌球場で42才の生涯を終えた。」

 

「球禍」というなじみのない言葉。試合中のプレーがもとで亡くなった日本の野球選手をわたしはこの人のほかに知らない。古い話なのでわたしにとっても状況は長らく謎のままだった。幸い、函館市の中央図書館は五稜郭公園に隣接していて、休日も夜8時まで開いている。『北の球聖 久慈次郎』は大阪の図書館でも置いていて借りられるが、その参考資料である『スコアボードが見ていた。』(函館太洋倶楽部80年史)と『北海の三球人』はここでなければ閲覧するのは難しい。夕方の観光を切り上げて図書館に立ち寄り、ページをめくってみた。

 

 

(函館オーシャンスタジアム横にある「球聖久慈次郎の像」)

そもそも久慈次郎とはどういう選手だったのか。岩手・盛岡中学で野球を始めた。身長約180cm(五尺九寸)で、肩が強かったので捕手をやることになった。4年生のとき全国中等学校野球大会が始まったが、盛岡中学は東北予選で敗退した。

 

大正7年早大へ進学。早大のコーチがかの飛田穂洲だった。強者揃いの早大では入学当時はさほど目立たなかったようだが、大正9年には飛田をして技量の進境著しいと言わしめた。翌年に早大は米国へ遠征する。本場の野球に触れて久慈のプレーはさらに洗練され、日本に帰ると久慈から盗塁を奪える者はほぼいなくなったという。

 

大正11年春に早大を卒業すると、函館太洋倶楽部(以下太洋と略記)に入ることになった。早大の先輩で投手の橋本の球をまともに受けられる捕手がいなくなったということで、仕事の世話から何から、かなり熱心に勧誘を受けたそうだ。橋本-久慈のバッテリーは道内無敵を誇り、久慈は加入後ほどなく主将を任される。

 

都市対抗野球大会は昭和2年から始まった。太洋では橋本の剛腕に衰えが見え始めた。昭和に入ると東京や大阪などの大学・企業が野球に力を入れるようになり、わざわざ函館までやってくる有力選手はいなくなった。全国的に見れば太洋は「地方の古豪」になっていた。都市対抗では推薦を受けて出場するが初戦敗退が続いた。

 

昭和4年には大エース橋本が引退、昭和5年に久慈は監督兼任となる。その年の都市対抗野球は優勝候補の筆頭・満州代表の満州倶楽部と初戦で対戦した。太洋は久慈のタイムリーなどで初回に3点を先制したものの、新しくエースになった広瀬がいけない。四球で走者をためるとガツンとやられ、2回に5点を失った。久慈は立ち上がってマウンドに向かうと、マスクとプロテクターを外し始めた。ホームプレートのほうに向き直って球審に告げる。「ピッチャー、久慈!」

 

大学時代、連戦の米国遠征などでは投手を務めたこともあったというが。観衆も「投げられるのかね」と驚いただろう。しかし久慈は強肩を生かした速球で押し、その後の攻撃を7回1失点でしのいでしまった。試合は4-6で敗れたが、この選手兼監督の「リリーフ・俺」の印象がよほど強かったとみえる。久慈には大会後に優秀賞が贈られた。表彰選手が初戦敗退チームから出るのは異例のことだ。

 

連戦連勝の強豪チームは確かに素晴らしい。が、こういう名物選手がいて、決して強くはないが毎度毎度やってくるチームというのも応援したくなるものだ。久慈が球場に姿を現すと、スタンドのそこかしこから「まだ元気でいたのか」「若い者はうまくなったか」と声がかかるようになる。

 

悲願の都市対抗での勝利を果たしたのは昭和14年のこと。久慈はオフシーズンの大けがで、足を引きずりながらの出場だった。1回戦で長野法規を7-1で下すと、久慈は選手たちを連れて恩師・飛田のもとに酒瓶をぶら下げて訪れ、祝杯を挙げたという。2回戦では前年度優勝の東京藤倉に3-5と接戦で敗れた。勝った東京藤倉はこの年も優勝し、連覇を達成する。太洋には優勝チームを大いに苦しめたとして特別賞が、久慈にはファインプレー賞が贈られた。函館に戻ったチームは、道内大会のために休む間もなく札幌へ向かう。行く手に久慈次郎最後の試合が待っているとは夢にも思わなかった。

 

登場も退場も早すぎたスター選手だった。現在の夏の甲子園につながる大会は在学中に始まったところだった。早稲田出身だが、人気を誇る早慶戦は中止の時期だった。都市対抗野球大会が始まったころには、チームの黄金期は過ぎていた。職業野球チームができるころには、第二の故郷・函館に根を下ろすことを決めていた。ただ、その後の戦線拡大によるさまざまな辛い目を見なかったことだけは幸せだったかもしれない。

 

戦争によって中断されていた都市対抗野球大会は昭和21年に復活した。翌昭和22年の大会から「久慈賞」が創設された。敢闘賞に相当する。現在では準優勝チームの優秀選手に贈られることが通例となっている。大会優勝といったようなわかりやすい栄光には恵まれなかったが、最後までグラウンドで奮戦した久慈の名前を冠するにふさわしい。
(参考:『北の球聖久慈次郎』中里憲保/草思社 2006、『熱球三十年』飛田穂洲/中公文庫 1976)

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