我的愛球史 第41話 「うねる青波」
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こじっく
2010年11月02日 23:20 visibility174
僕は雑誌の「Number」が大好きなのですが1995年に発行された376号のタイトルが素晴しくて忘れられません。
「ブルーウェーブ 波光きらめく」
表紙はもちろん、イチロー選手。
チームの愛称がブレーブスからブルーウェーブになり、西宮球場から神戸に移転した時は、「なぜ伝統のブレーブスの名を捨てるのか!」と思ったのですが、この時は素直に「ああ、いいな・・・優しくて、しなやかで・・・震災からの復興を目指す神戸にぴったりの愛称ちゃうかな・・・」と思えたのです。
僕もちょっと考えてみました。
「うねる青波」
ダメだ・・・美しくない。みんなから愛されたチームの姿を表現していない・・・。つくづく言葉は難しいものです。
さて、僕は阪神ファンですが、95年、96年は本当にオリックスに優勝して欲しかった。
「あの時期、西宮も半分はオリックスファンになった」
生粋の宮っ子でトラキチの友人もそう言っていました。
それほど、関西のオリックス熱は高かった。
95年のオリックスは神戸復興の希望を一身に背負って士気が高く、開幕から勝ち続け、7月には早くもマジックが点灯するほど圧倒的なペースで勝ち続けました。
最後には82勝47敗1分の数字に落ち着きますが、優勝まであと1勝と迫って神戸のゲームで5連敗したり・・・というドラマもありました。
なかなかハイペースで勝ち続けるというのは難しいものです。
選手の個人成績を見ても、まず4月21日に野田浩司選手が一試合19奪三振の日本記録樹立。
8月26日に佐藤義則選手が40歳11ヶ月の日本球界最年長ノーヒットノーランを達成。
同じく投手部門では平井正史選手が42セーブポイントのパリーグ新記録。平井選手は新人王に輝きます(僕と同い年です!)
大いにファンを沸かせます。
打撃ではD.J.選手が2試合にまたがりましたが4打席連続ホームラン (8月8日、9日)。
そして、イチロー選手。.342、25本塁打、80打点、49盗塁で首位打者、打点王、盗塁王を獲得。
主に一番バッターを務めるイチロー選手の打点王獲得は異例中の異例といえる出来事でしょう。
ただ、80打点での打点王は、当時はすごいと思いましたが、今となっては寂しい数字かもしれません。
当時のオリックスのレギュラーの成績を見ても、堅守のサード馬場敏史選手が.262でたったの1本塁打。
田口選手も意外に打撃不振で.246、9本塁打、61打点。
日本人スラッガーの藤井康雄選手も.237、14本塁打、49打点と軒並振るいません。
チーム最多本塁打はニール選手の27本(.244、70打点)。
他にはD.J.選手が16本塁打(.266、60打点)したことが目を引くぐらい。
投手陣を見ると、星野伸之選手11勝8敗(3.39)、長谷川滋利選手12勝7敗(2.89)、野田浩司選手10勝7敗3.08)、高橋功一選手7勝6敗2.67)、佐藤義則選手4勝2敗(3.86)。
平井選手が救援で15勝(5敗27セーブ)していますが、先発陣は何とか実力を発揮したか、むしろやや不調だったのでは?と思えるような成績になっています。
これで優勝できたのは、はまさに「がんばろう神戸」のスローガンの下でのチームの団結と、この1年にかける集中力、そして仰木彬監督の采配によるものでしょう。
しかし、本当にそれだけか?
僕はあの年、そして翌年のオリックスには日本中の応援エネルギーを集める磁石と化していた様な気がします。
今年のサッカー日本代表がワールドカップ前に不振だった時、岡田前監督が「念を送って下さい」と訴えられました。
中にはそれを聞いて失笑する人もおられました。僕も周りにもそれはおられました。
この時、僕はどう思ったかといえば「ああ、やはり勝負師は敏感に『念』を感じ、それがチームのパワーに転化することを当然のことと知っておられるのだな」と再認識した思いでいたのです。
ああ、せめて今年だけはこのチームを勝たせたい・・・野球やサッカー、その他のスポーツでも、世相や事件、様々な要因を背負ってそういうチームが現れることがあります。
95年、96年のオリックスブルーウェーブは間違いなく歴史に残るそんな奇跡のチームだったと思うのです。
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