我的愛球史 第42話 「がんばった神戸」


 昨日の日記で95年のオリックスブルーウェーブについて書いたので、96年のオリックスについても書いておきたいと思います。

 あれは2年ごしのドラマだったと思いますので。

 96年のパリーグを開幕から盛り上げたのは日本ハムファイターズでした。

 長く優勝から遠ざかっていた鬱憤を晴らすような進撃ぶりで、追走するオリックスも差を詰められません。

 しかし、盛夏を過ぎる頃から日本ハムは失速。

 順位は入れ替わり、勢いを保ったオリックスが9月23日に神戸でリーグ二連覇を決めます。

 この試合でサヨナラヒットを打ったイチロー選手の喜び様は目に焼きついています。

 今の人間として成熟したイチロー選手も良いですが、喜びを素直に、感情を隠さずに全身で表す若いイチロー選手、好きだったなぁ・・・。

 この年のオリックスが出遅れた原因は、誰が見ても主力投手の昨年までの疲労が吹き出たことだったと思います。

 顕著だったのが若い平井正史選手。この年はクローザーの地位を鈴木平選手に譲り5勝6セーブ止まり。ただし2年続けて激務のリリーフを務めた鈴木選手(55試合登板)、そして野村貴仁選手(54試合登板)の奮闘は特筆に価します。

 先発の長谷川滋利選手、野田浩司選手も2桁勝利ならず。

 星野伸之選手、フレーザー選手が13勝、10勝した他は平凡といえるような成績に終わってしまいます。

 打撃陣は前年に比べて上向き。

 イチロー選手は打点王を獲得した前年を上回る84打点(.356、16本塁打)。

 そのイチロー選手を上回る111打点を叩き出したのがニール選手(.274、32本塁打)。

 ニール選手は本塁打と打点の2冠王を獲得。

 2年連続でチームからこの2冠王が出たことが大きかったのでしょうね。

 日本シリーズは巨人を4勝1敗で下し、ここに2年にまたがったブルーウェーブの伝説は完結します。

 翌年からは優勝争いをしても最後にはペナントを譲ってしまう従来のオリックスに戻ってしまったことが残念です。

 しかし、ブルーウェーブというチーム、そして何より神戸の街の皆さんは(もちろん淡路島や西宮など被災地域全ての方を含めて)あの2年間、誰よりも「がんばった」のです。

 日本中の声援をパワーに変えて、期待通りの結末を現実にしたのです。

 これ以上の物語は望めない・・・プロ野球の歴史で永遠に語り継がれる不朽の叙事詩なのです。


 その一方で阪神タイガースは2年連続の最下位。

 95年途中から指揮を取った藤田平監督は4番を生え抜きの桧山進次郎選手に託すなどチームの意識改革、士気の高揚に力を注ぎます。

 一方で厳しい指導方針は度々選手の心の離反を招いたとされ、チーム状態は一向に上向きません。

 96年の5月1日にグレン選手が代打サヨナラ満塁ホームランを放つなど、たまに感動的な試合をするのですが、「たまの連勝で喜ぶ」「選手の個人記録で喜ぶ」という楽しみ方はファンとして辛いものがあります。

 ファンの望む強いタイガースを藤田監督は実現できず、96年9月12日に柴田猛代行監督に指揮権を渡すことになります。

 すると、何となく主力選手が伸び伸びとプレーし始めた気がして・・・それを象徴するのがその年のシーズン最終試合。

 中日金森隆浩投手から初回に新庄剛志、塩谷和彦の2選手が満塁ホームラン。

 さらにこの試合、新庄選手がもう一本ホームランを打って11−1の快勝。

 つかの間の鬱憤晴らしでした。

 中日の金森隆浩選手、僕は金森選手が立命館大学時代に西京極球場で投げる試合を見たことがあるのですが、この時も初回に同志社大学の2番バッターにレフトにホームランを打たれていたことを覚えています。

 この話は蛇足と言うことで・・・。

 こうして96年のシーズンも暮れて行ったのでした。

 


 

 

 











































































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