我的愛球史 第53話 「知将から闘将へ」


 (写真と記事は関係ありません)
 
 2001年の晩秋、阪神タイガース野村克也監督の身に、思いがけない問題が持ち上がりました。

 夫人の脱税問題でした。

 日に日に高まる事件報道。

 野村監督への批判も避けられない状況になっていきました。

 家族の脱税は許されないことです。

 野村監督の「監督責任」「監督能力」を問われても仕方ありません。

 しかし、連日の「これでもか!」というマスコミの過熱報道ぶりに、野村監督の心労は大変なものだったことでしょう。

 ついに、監督辞任が現実のものとなりました。

 後任の監督人事に日本中が注目しました。

 「阪神を変えるには、西本幸雄さんか星野仙一のような監督が必要・・・。」

 ただ選手の練習するグランドに立っているだけで存在感を示せる監督として、野村監督は2人の名前を挙げていました。

 折しも、同じ2001年シーズン修了を以って星野仙一さんは中日ドラゴンズ監督を辞任。

 「ドラゴンズはLOVE。タイガースはLIKE。」

 意味深長な星野さんの言葉にタイガースファンの期待は高まります。

 いや、熱い心を持つ星野さんなら必ず監督就任を受けてくれるであろうことは、報道が出始めた時点で多くのファンが予想していたことでした。

 そして、就任会見。

 87年に自らが選定したドジャーズを模したブルーのユニフォームから伝統のタテジマヘ。

 鮮やかにユニフォームを着替えて闘将は甲子園で指揮をとることとなったなったのです。

 阪神タイガース、世間より1年遅れて「新世紀」を迎えることとなりました・・・。

 さて、その頃海の向こう、アメリカでは・・・。

 1年前にタイガースを飛び出したプリンス新庄剛志選手が激動のオフを過ごしていました。

 このシーズン、ニューヨーク・メッツで123試合に出場した新庄選手は.268、10本塁打、56打点と、日本時代と遜色ない打撃成績をあげます。

 しかし、それ以上に本場のファンを魅了したのが華麗な外野守備でした。

 12捕殺を記録し、パワーに秀でた並み居るメジャーリーガーの中でも「強肩外野手」の印象を強く残します。

 そして、「これだけの活躍をしたのに・・・」と日本人ファンなら誰もが思ったことでしょう・・・・このシーズン終了後にサンフランシスコ・ジャイアンツにトレード。

 メジャーリーグの選手トレードの目まぐるしさ、厳しさを日本人ファンに示すかのような移籍でした。

 それにしても「ジャイアンツの新庄」なんて・・・。

 多くの阪神ファンは複雑な気持になったことでしょう。
 

 


























































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